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もう三十路を過ぎて、大人と言われる年代になったけれど、降谷くんは性急に手を出してくるようなことはなかった。
触れるだけのキスを二回。
そのあとに、思い出したように緊張の面持ちで付き合ってほしい、と言われた。
悩まずに頷くと、彼は安心したように表情を綻ばせた。
その日は、そのまま一日中手をつないで、ずっと話していた。
中学以降のお互いの話だ。
当時彼と仲の良かった諸伏くんは亡くなったそうで、今度一緒に墓参りに行ってほしい、と頼まれた。
もちろん、と頷いた後、彼は、あたしの家族の墓に参りたい、とも言ってくれた。
「…あの、さ」
「なんだ?」
「あたしが言うのもなんなんだけど…」
「うん」
なんとなく言葉として紡ぐのに抵抗があって濁すが、彼の真っ直ぐな瞳はあたしから逸れそうにない。
「…家族の墓参りとか、重たくない?
大丈夫?」
正直、結婚やらにまで話が進めばあたしは非常に楽な物件だと思うが、付き合った初日に位牌に手を合わせてくれて、すぐに墓参りに行くのはどうだろう。
重たくないだろうか。
あたしが探るように聞くと、彼はそんなことか、と彼は呟いてから、空いている手であたしの頭を撫でる。
「僕が挨拶したいんだ。
君を大切に守っていた、ご両親たちに」
酷く、曖昧な言葉だと思った。
家族仲は良かったと思う。
両親とも、祖父母とも。
でも、あたしは本当に“守られて”いたのだろうか。
どうして一緒に連れて行ってくれなかったのか、と思ったことも一度や二度じゃない。
もし、この世にあたしを残していったことが“守る”ということなら、守ってもらわなくてよかったのに。
…そんなあたしの気持ちなんて、お見通しとばかりに彼の瞳の色が憂いを帯びた。
「僕は、君が今、ここにいてくれてよかったと思うよ」
「…その言い方は、ずるいよ」
降谷くんと出会えて、今幸せなのは結果論でしかない。
今を蔑ろにするわけではないけれど、当時の自分が救われるわけではない。
それでも、あたしも今、降谷くんと居られてよかったと思えるのは、“守られていた”からなのかもしれない、と思った。
降谷くんの休みが土日に重なったとき、あたしたちは連れ立ってお墓参りに向かった。
先に諸伏君のお墓参りだ。
車に乗せられてどこに行くのかと思えば、長野に着いた時にはさすがにびっくりした。
どおりでやたら早い時間に待ち合わせだった筈だ。
朝八時とか何事って思うでしょ。
少し北に来たことで肌寒くなった。
無意識に二の腕を摩ると、察してくれたのか、降谷くんはジャケットをあたしに掛けてくれた。
「ありがと」
「いや。
ちゃんと言ってなくて悪い」
「そこは反省して」
そう言うと、彼は楽しそうにあぁ、と笑った。
あたしにはよくわからなかったけれど、安室さんに対してはなかった軽口が嬉しいらしい。
諸伏くんのお墓を掃除して、花を生ける。
お線香に火をつけて、二人で手を合わせた。
暫く、そうして過ごしていると、降谷くんがぽつりと呟く。
「ヒロ、待たせてごめん」
きっと、その言葉の羅列はあたしに聞かせるつもりはなかったのだろう。
彼の瞳はまっすぐにお墓に向いていて、あたしを映そうとはしない。
彼と諸伏くんは小学生の頃からの幼馴染だと言っていたし、あたしには計り知れないいろんな思いがあるのだろう。
長野でお蕎麦を食べてから、都内へと帰る。
今回、あたしからもお願いをして、降谷くんの両親のお墓参りも行かせてもらうことにした。
先程と同様に掃除をして花を生けて、手を合わせる。
降谷くんを産んでくれたことに感謝をした。
最後はあたしの家族のお墓参りだ。
同じ寺にあるとわかっていた彼の友人のお墓も、一緒に参った。
比較的最近お墓参りをしていたので、そこまで汚れてはいなかった。
お花だけ生けなおして、手を合わせる。
お父さん、お母さん、お祖父ちゃん、お祖母ちゃん。
みんながまだ生きていた頃に好きだった男の子と、付き合うことになりました。
だからと言って、あの頃に戻れるわけではないけれど。
あたしを、守ってくれたの?
あの日、連れて行ってくれなかったお出かけも、一人暮らしをしなさい、と言われた大学時代も。
もしそうなのだとしたら、きっとあたしはとても甘えていたのだろう。
一緒に逝かせてくれなかったと、皆をなじってばかりだった。
ずっと、ごめんね。
ずっと、ありがとう。
これからも、わがままで放っておけない娘かもしれないけど。
見守っていてね。
ふと、横を見ると、彼は立ち上がってあたしを見下ろしていた。
どうしたのだろう、と首を傾げると、彼はあたしの手を取って立ち上がらせてくれる。
「…性急で、驚かせるかもしれない」
ふと、いつも自信満々な彼の、弱気な声音にあたしは首を傾げた。
「嫌がられるかもしれない。
それでも、君に聞いてほしい」
「降谷くん?」
弱気な声なのに、強い眼光があたしの目を捕えて離さない。
あぁ、昔から、あたしはこの目が好きだった。
学生の頃はここまで鋭くなかったし、この目で見られることはなかったけれど。
端正な顔立ちの綺麗な唇が開かれて、彼は小さく息を吸った後、さっきまでとは裏腹に強い意志を持った声で、言葉を紡ぐ。
「ひな。
僕と結婚してくれないか」
ぱちり、と瞬きをした。
想像もしなかった言葉は、確実に音としてあたしの耳に届いていたのに。
意味も分かるのに、理解が追い付かなかった。
「…え?」
ぽろりとでた言葉に返すように、彼がまた言葉を紡ぐ。
「君ももう察している通り、仕事が忙しくて帰れない日もある。
君に不自由させるかもしれない。
君が傍に居てほしいと願う時、きっと僕は傍に居られない」
話しながら苦虫を嚙み潰したような表情になっていく彼を、あたしはじっと見ていた。
それでも、とまた目に力が入る。
「君と家族になりたい。
僕の家族になってほしい。
君を守ると、君の家族に誓いたい」
あぁ。
こんな、プロポーズがあるのだろうか。
彼は、苦し気に自分の欠点も伝えてくれて。
でもそれは、気持ちでは反対のことを全力で叫んでる。
家族になりたい、家族になってほしい、と。
彼のただひとりを、あたしにくれるというのか。
ぼろり、と目尻から雫が落ちていく。
一粒、二粒と続いて落ちていく涙が止まらない。
頬を伝う雫を褐色の指で掬い取る彼が、少し戸惑った表情で今度は両手で頬を包む。
それに答えるように、あたしは彼の背中に腕を回した。
「あたしも、貴方の家族になりたい。
貴方に、家族になってほしい」
戸惑っていた表情が一瞬で熱の含んだ瞳となって、彼の綺麗な顔立ちが近づいた。
付き合い始めてから、三回目のキスは、涙に濡れて少ししょっぱかった。
触れるだけの長いキスの後、耳元で囁かれた言葉にあたしは耳まで真っ赤になったのがわかったが、彼の腕の中で、小さく頷いた。
翌朝。
目を覚ますと、目の前には褐色の肌があった。
一瞬びっくりしたけれど、そうだった、と思い出す。
君の全てが欲しい、なんて言われた言葉に頷いたら、彼の家に連れていかれてそのままベッドに放り込まれたので死ぬ気でシャワーを所望すると、彼は少し落ち着いたのか、軽食も用意してくれた。
ポアロの時からわかっていたが、とても料理上手。
美味しかった。
改めてベッドインした後、彼の手付きは終始優しかったけれど、基礎体力の問題なのだろう。
結果抱き潰された状態になったあたしは昨夜の最後を把握していない。
恐らく肌の感覚から、一糸纏わぬ姿のあたしは同じく一糸纏わぬ姿の彼に抱き締められている状態で目が覚めた。
あたしが起きたときには、彼も目覚めていたのだろう。
少し顔を上げると、細められた瞳と目が合った。
「おはよう」
「おはよ」
彼に返した声は掠れている。
「無理させたな」
それは否定せずに頷いて返す。
彼は面白そうに笑った。
「ふる」
やくん、と声をかけようとしたら、キスで口を塞がられる。
角度を変えて繰り返される口づけの隙間が生まれた瞬間にどうにか音を滑り込ませる。
「れぇ、んぅ、くん」
苗字ではなく名前で呼ぶとキスが止まる。
先ほどまで触れていた唇が艶めかしく濡れている。
安室さんに近い笑みがしっかりと形作られて、彼はいけしゃあしゃあと首を傾げる。
「なんだ?」
「…質が悪い」
思わずそう言うと、もはや何度目かわからないキスが降ってきた。