6
家路の途中、安室さんを見かけたと同時に意識が遠のいた。
目を覚ますと、視界に映ったのは見慣れた自分の部屋だった。
あれ、と体を起こそうとするが、体の節々が痛む。
そうだ、熱があるんだった、と自分の状況を思い出してそのままベッドに身を任せた。
どうやって帰ってきたのだろう。
そう思った矢先に、リビングの方から物音が聞こえて視線を送った。
失礼します、と声をかけてから部屋に入ってきたのは安室さんだった。
「あむろ、さん?」
掠れた声しか出なかった。
「おはようございます。
気分はどうですか?」
そう聞きながら、彼はあたしの首に手を当てる。
首に手を当てられたことに驚くが、その冷たさが気持ちいい。
今気付いたが額に冷えピタが貼られているようだ。
「まだ熱いですね」
「あたし、安室さんに会って…」
「そのまま意識を失ったので、ここまで。
部屋わからなかったので、免許証確認しました。
すみません」
頭を振ろうとするが、ガンガンと響くのを感じていえ、と呟く。
「あたしこそ、ごめんなさい。
ご迷惑おかけして…」
「大丈夫ですよ。
ポアロが急遽休みになったので、ちょうど暇してたんです」
休みを潰させてしまったのか、と申し訳なくなる。
あたしの表情で悟ったのか、にこりと笑う。
「あのまま二城さんにお会いしなかったら、予定詰めてたと思うので。
久しぶりにゆっくりさせていただきました」
ちょっとイケメン過ぎないだろうか。
あたしの目の前に今こんな人がいることが不安になる。
「…ありがとうございます」
そう言うと、彼はこちらこそ、と笑った。
「ひとまず薬飲んだ方がいいですね。
お粥作りましたが、食べられそうですか?」
「あ…はい」
「では、温めてくるので…。
ひとまず部屋着に着替えてください」
そう言われて自分の服を見ると、オフィスカジュアルのままだ。
はい、と頷くと、彼は部屋を出てキッチンに向かった。
着替え終わってリビングに行こうとすると、寝ててくださいと言われる。
過保護だ。
でも、化粧は落としたいと思って洗面所へ向かう。
お手入れは若干手抜きだが、このだるさの中化粧落としただけでも充分偉いと思う。
スマホだけ枕元に移動しておくと、すぐに安室さんがお茶碗を持ってやってきた。
「どうぞ。
熱いので気を付けてくださいね」
「いただきます」
渡されたお茶碗と匙を受け取って口に含む。
いい塩加減が口に広がって、塩分と水分を欲していたことに気付いた。
体調が悪いときにお粥を食べるなんて、何年ぶりだろうか。
最近はもっぱらゼリーだった。
最後は、祖母が生きていた頃だろう。
そう思うと、ぼろり、と目じりから涙がこぼれる。
目の前にいた安室さんが、目を見張った。
「あれ…」
「味、変でしたか?」
そう聞かれて、いえ、と答える。
「すごく、おいしいです。
ただ…。
だれかがいてくれるの、ひさしぶりで…」
ひとりになってから、もうすぐ十年だ。
ひとりは慣れたと思ったのに、人間は風邪をひくと弱る生き物らしい。
心配そうにしていた安室さんの瞳が細くなり、優しさが浮かぶ。
位牌の数で、気付いたのかもしれない。
あたしにもう家族はいない、って。
ぽんぽん、と、熱に浮かされた頭に響かない強さで撫でられる。
それがまた温かくて、涙は止まりそうになかった。
ひとしきり泣いてから、冷めたお粥を頂く。
温めなおすと言われたけれど、よそってきてくれたお粥を食べたかった。
冷めても十分すぎるくらい美味しかった。
お茶碗を渡して、薬と水をもらう。
こくりと飲んだのを確認してから、安室さんはでは、と立ち上がった。
「あまり長居しても休まらないでしょうし、僕は失礼しますね。
鍵はポストから入れておくので、回収してください」
「ほんとうに、ありがとうございました、安室さん」
彼はもう一度あたしの頭を撫でる。
「いえ。
ひなさん、ゆっくり休んでください。
ポアロでお待ちしてますね」
こくり、と頷くと彼は満足したように笑った。
彼の背中を見送って、玄関の扉の閉まる音を聞いてから、布団にもぐる。
手放しそうになった意識の中で、苗字ではなく、名前を呼ばれたことに気がついた。
無事翌々日復活したあたしは一週間の業務を終え、金曜日にポアロにやってきた。
ちょっとしたお礼と勇気を携えてやってきて、本人いなかったらどうしようかなと思ったが、ガラスの向こうに金色の髪を見つけて胸を撫で下ろした。
ガラスの向こうからあたしに気付いた彼は、いつも通り、否、いつも以上の笑顔を向けて迎えてくれる。
「いらっしゃいませ、ひなさん」
「こんばんは、安室さん」
名前で呼ばれて、あぁ、この人の中であたしは名前で呼ばれる存在になったのか、となんとなく思った。
今日は梓さんはお休みらしい。
「先日はありがとうございました」
「いえ。もう大丈夫なんですか?」
「おかげさまで」
いや、もうほんと、お陰様で、道端で倒れるなんて大事にならずに済んだ。
ひとりだったら家まで無事帰れたのかもしれないが、それは神のみぞ知る。
「あまり無理しないでくださいね」
「肝に銘じます」
あはは、と苦笑する。
ひとりなのだ、無理をしても、頼れる人は誰もいない。
食事を終えてから、いつも通りお茶をしながら読書をする。
閉店時間も近づいて、お客さんがいなくなった頃、安室さんに声をかける。
「これ、先日のお礼です」
「え」
小さな紙袋に入っているのは、ドリップコーヒーとクッキーだ。
残るものはちょっとな、と思ったのもあって消え物で纏めた。
「大したことしてないですよ」
「そんなことないです。
もう、お察しだとは思うんですが…、ひとりきりなので、とても助かりました」
言外に家族がいないことを告げると、口にするのを憚ったのか、安室さんが苦笑する。
「ありがとうございます」
そう言って、紙袋を受け取ってくれる。
「病気の時って、ひとりでもなんてことないつもりだったんですが…。
誰かがいてくれるととても心強いんだなって思いました」
「わかります。
僕も一人暮らし長いので」
…一声かけたらいろんな女の子が釣れそうだなぁ、と思っていると、あの、とちょっと怪訝に声を掛けられる。
「僕、彼女暫くいませんからね」
「エ。それは嘘でしょう」
思わず呟くと、本当ですよ、と返される。
「少なくとも、学校卒業してからはいないです」
「えーーー」
嘘だぁ、と呟くと、また本当ですよ、と返される。
そのやり取りがなんとなく面白くて、あたしはくすくすと笑う。
安室さんもあたしが面白がってるのがわかって、同じように笑った。
そんな、いつも通りの毎日だった。
何年も続いた訳ではないけれど、あたしの大事な毎日だった。
あたしと安室さんは、あくまでも店員とその常連客で、偶然会った時を覗いたらプライベートで会うこともない、そんな不確かな関係。
でも、ポアロでの時間が心地よくて、あの時、降谷くんを目で追っていたように、あたしはまた、安室さんのことも追っていたのだろう。
恋を、していたのだろう。
季節をいくつか超えた頃。
安室さんは、ポアロを辞めた。