空を見つめる
小さな頃から音が苦手だった。
私の耳には、いろいろな音が大きく聞こえて、でも、それが当たり前だと思ってた。
どうしてみんな、こんな五月蠅い音の中で生きていられるのだろうと、そう思ってた。
元来苦手だった音が、この聴覚が、少し悪化したのは高校の頃だった。
朝起きて、学校に行って、授業を受けて、友達とごはんを食べて、また授業を受けて部活をして帰る。
そんな当たり前の日常が歪み始めた。
授業中にキモチワルサを感じるようになった。
ちょっとした机を叩く音。
椅子を引く音。
チョークが黒板を引っ掻く音。
教科書やノートを捲る音。
ペンが紙の上を滑る音。
級友のコソコソとした話し声。
教鞭をとる先生の声。
全てが気持ち悪くて、私は休み時間の度に耳を塞いだ。
その耳を塞いだ両手の筋肉が軋む音すらも、気持ち悪かった。
社会人になった今も仲のいい友人は全員当時のクラスメイトで、彼女たちは私が机の上に顔を伏せて耳を塞いでいると、放っておいてくれる、そんな優しい子たちだった。
その優しさが有難くて、同時に、残酷だと、思った。
私はこんなに苦しいのに、気持ち悪いのに。
私がこうして身動きが取れない中でみんなはいつも通りに笑っている。
私が知らないところで仲を深めていく。
私は、独りぼっちだ。
少し我慢して皆と話しても、次の休み時間にはキモチワルサがピークになって独りの世界に閉じ籠る。
そんな意味のない時間を過ごした。
でも、ある日。
そうやって耳を塞いで塞ぎ込んでいる私の机に、一枚の綺麗に折り畳まれたメモが置いてあった。
仲のいい友人の内の誰かだろうか。
そう思ってメモを開いてみると、見たことのない筆跡だった。
こんなきっちりと、少し尖ったような字を書く友達はいない。
メモの内容はなんてことない、「今日も空が青いね」なんていう日常だ。
次の授業を終えてから友人に見せてみたけれど、やっぱりメモの主は居なかった。
その日から、メモは定期的に訪れた。
耳を塞いだ時常にあるわけではなかったから、たまにしか見ない、ちょっとしたくじを引いているような、そんな気分だった。
そう思い始めて、私は初めて、独りで耳を塞いで過ごす休み時間を心穏やかに終えられた。
結局卒業するまでメモの主は見つけることができず、卒業までに溜まったメモは全部で百一通。
今でもメモは私のキャビネの一角に頓挫していて、どうしようもなく落ち込んだ時は眺めていた。
大学も似たように四年間を過ごし、社会人になった。
社会人になって最初に務めた職場はまっくろくろすけもびっくりなブラック企業で、私は早々に精神を病んだ。
キモチワルイ程度だった音が聞いていられないものになった。
扉を二枚も三枚も挟んだ向こうで流れるテレビの音が五月蝿くて、もう、日常を当たり前に過ごすことはできないのだと、悟った。
いつの間にか増えていた左腕の赤い線が、自分を弱虫だと詰る。
一人前にアムカをするくせに、手首を傷つける勇気はなくて、誰かに助けを求めることもできなくて、私は学生の頃のように独り部屋に籠っていた。
親のすすめで行った精神科ではうつ病と自律神経失調症、それに伴う聴覚過敏だと診断され、抗うつ剤を飲めば少し楽になる耳と生きていくことになった。
担当になった先生とは折り合いが悪く、病院に行くのは億劫だった。
何年か通院を続けた後、「これ以上の完治はないね」と言われた言葉で私は通院を辞めた。
飲みきれなかった使用期限切れの抗うつ剤をお守り代わりに持ち歩いていたけれど、基本的に自分の機嫌は自分で取る。
その気持ちで日々を生きていた。
音楽を聞いていれば街を歩けると解ってからはイヤホンもお守りとなった。
職場でも音楽を聴いていれば、多少の音は我慢ができる。
次に来る音がわかるから他の音に惑わされずに済むのだ。
人の声を聞くのも、物音を聞くのもしんどいけれど、音楽があればひとまず生きていけるのだと、人として、最低限の尊厳は守られているのだと、酷く安心した。
ある日、真夏の強い日差しが朝から降り注ぐ日に、新入社員が入ってきた。
総務で入った小さな会社で、去年から新入社員の対応も私がするようになった頃で、勝手がわからず相手を待たせることもあったけれど、金髪碧眼褐色の肌を持った彼は大丈夫ですよ、と爽やかに笑ってくれた。
心中は分からないが、その笑顔はありがたい。
「あの、失礼だったら申し訳ないのですが…」
恐る恐る、そんな言葉で紡がれたのは、よくある質問だった。
「イヤホン…補聴器?ですか?
僕、何か話し方とか変えた方が聞きやすかったりしますか?」
心配そうに眉尻を下げる安室さんの様子にいえ、と頭を振る。
「紛らわしくてごめんなさい。
聴覚過敏で、通常時外の音を聞かないために着けてるんです。
音はきちんと聞き取れるので、気にしないでいただけると…。
もし私に話しかける機会があって、私が気付かなかったら、外の音拾えてない可能性があるので、視界入っていただいて構いません」
そう言うと、彼は口の中で聴覚過敏、と呟いてから、ほっとしたように表情を解いて、わかりました、と笑った。
「あ、安室さん。
こちら、内容確認の上自筆でサインいただけますか」
個人情報の取り扱いに関する書類だ。
こればかりは自筆で、と上司から指示を受けている。
彼は大きな手でペンを持って、サラサラと自分の名前を書きあげる。
その筆跡に見覚えがあって、私は目を見張った。
「…二城さん?」
まじまじと見ていたせいか、それとも私が返事をしなかったのか。
彼は私の視界の前でパタパタと手を振っていた。
「あ、すみません。
ありがとうございます、預かりますね」
書類を手にして、オリエンテーションはおしまいだ。
家に帰ってから、私は宝物のメモを見た。
「安」「室」「透」。
この三文字がピンポイントで書かれた文字はないが、やっぱり似てるような気がする。
高校の時、私は英文科で、一クラスしかなかったから三年間クラスメイトが変わらなかった。
普通科にも知り合いはいたが、全員の顔と名前を覚えられるほど交友はなかったし、そもそも休み時間の大半をシャットアウトして生きてきたのだ。
他のクラスの人の顔なんて殆ど見ていない。
言われればクラスメイトが普通科にいる外国人の話をしていたような気もするけれど、それも耳を塞いでいたからあまり把握はしていなかった。
「今日も、空が青いね」
安室さんの瞳の色が空の色だった。
そんなことを思いながら、宝物の文字をなぞる。
何度このメモに助けられただろう。
左腕の真っ赤な線は、未だ時折作ってしまう。
作り終えるまでは殆ど衝動で動いているから、腕が真っ赤になってから我に返るのだ。
何度も自己嫌悪に陥ったけど、このメモを見て立ち直れた。
今日も、空が青いから、大丈夫。
その後、安室さんとはオフィスですれ違う程度の付き合いだった。
デジタル化が推進されている今、中々彼の直筆を見る機会はなかったけれど、まさか同一人物な訳はないだろう。
一瞬の夢をありがとう、と心の中で拝んだ。
安室さんが入社して一か月経った頃。
私は就業後、駅まで帰ったところで、忘れ物があったことに気付いて取りに戻った。
比較的ホワイトなウチの会社は、定時を過ぎるとあまり人は残っていない。
今日もそれは同様で、いたのは安室さんだけだった。
ただ。
彼は、自分の席ではなく、バックオフィスチームの部長のパソコンを操作していた、けれど。
「…え、と…。
お疲れ様…です、?」
どうして営業事務で入った彼が、部長の席に?
浮かんだ疑問を口にもできず、私はたどたどしく挨拶をする。
普段の爽やかさをシャットアウトした、無表情に近い表情。
美人が怒ると怖いと言うが、無表情なだけで充分怖い。
否、無表情だから、か。
近付いてきた彼に、腕を引かれて机の下に押し込まれる。
「なっ…」
「静かに」
話さないで、と紡がれた言葉を残して、彼は立ち上がった。
スラリと長い脚と、よく履いているベージュのチノパン。
少しすれば、エレベーターの開閉の音と、コツコツ、と少し重たい足音が二つ。
「どうだ」
聞こえたのは、今までに聞いたことのないほど冷たい声だった。
口元を両手で覆って、私は思わず後ずさりした。
背中に当たった机の冷たさにビクリと肩が震える。
「少々セキュリティを強化していたようですが、大したものではありませんね」
カタカタと響くキーボードの音に、近付く足音。
ベージュのチノパンの横に黒いパンツと黒光りする靴が見えて、私はぎゅっと目を瞑った。
「さっきビルに女が入ったようだが」
瞑った目をこれ以上ないくらいに見張った。
この人たちが何者で、何をしているのかは全く分からないけど、でも、よくない流れだということだけはわかった。
「あぁ…。
下の階の社員のようで、フロアを間違えたと階段で降りて行きましたよ」
事実と異なる会話を始める彼の言葉に迷いはなく、でも、私の心臓は耳元にあるんじゃないかっていうくらいにバクバクと鳴っている。
彼の言葉を聞いて、フン、と息を抜く男の声。
またカタカタとキーボードの音が響いた後、パン、と一際大きな音を立ててキーボードが打ち鳴らされた。
「これでデータはこちらのものです。
僕は戸締りして帰りますから、お先にどうぞ」
その声に促されて、黒いパンツと靴を持った二人分の足音が遠ざかっていく。
「バーボン。
つまらねぇネズミが居たらちゃんと処理をしておけ」
「えぇ。
貴方に言われずとも」
少しの足音の後、再びエレベーターの開閉の音が聞こえた。
ベージュのチノパンは窓の方へ振り返り、暫くしてからしゃがみ込んだ。
目の前に整った顔が現れて、私は息を飲む。
さっきまでの無表情とも違う、少し焦ったような、困ったような、そんな表情だった。
「すみません、手荒くしました」
そう謝罪した彼の言葉に返事ができず、ただ、固まっていた。
「移動します。
申し訳ないのですが、この後の時間を貰えますか」
声帯が震えて一向に声が出そうにない。
私が恐る恐る頷くと、彼は少し安心したように息を吐いた。
安室さんに連れられて、私はマンションの一室にやってきた。
物が少なく、とてもきれいなモデルルームみたいな部屋だった。
無意識のうちに左腕を摩る癖が止められそうにない。
ココロが落ち着かなくなると、とにかく左腕が疼くのだ。
中二っぽい?左目が疼く、的な。
でも、事実そうなのだから仕方がない。
今すぐ、傷を作りたくて、仕方がない。
「左腕を掻くのは癖ですか」
そう言われて、びたりと手が止まる。
摩っていた手が、無意識のうちに爪を立てていた。
まだ声が出てこないのか、何度か返事をしようとしてみても、喉からは空気しか出てこない。
諦めてコクリと頷くと、彼は褐色の手を私の左腕に伸ばし、袖をまくった。
「ぁっ…!」
人に見せられるものではない。
そう思って引くがびくともしない。
結果晒された左腕にはおびただしい切り傷と瘡蓋。
たった今引っ掻いていたが故に瘡蓋は剥がれ血が滲んでいた。
私の傷を見て、ぎゅっと眉間に皺を寄せる。
厳しい表情から、とても安室さんとは思えず私は息を飲んだ。
右手が宙を彷徨う。
それも無意識だった。
鞄の出しやすいところにしまっていたカッターを取り出して、カチカチと刃を出す。
でも、それを左腕に当てる前にカッターを払われてしまった。
そして右腕も同じように安室さんの手に捕らわれる。
「…ら、せて…」
切らせて。
お願い。
駄目だから。
無理だから。
お願いだから、切らせて。
力の限り振り解こうともがくが、安室さんの腕はびくともしない。
「お願い、だから…。
切らせて…。
切らせて!!」
五月蠅い。
自分の声も、自分の心臓の音も、もがくときに聞こえる服の摩擦も、全部。
ぜんぶぜんぶ、五月蠅くて、気持ち悪くて、消えてなくなりたかった。
「まだ。
この世界は、生きづらいのか」
不意に、安室さんらしくない口調でそう聞かれて、私は目を見張る。
「休み時間の度に、蹲って、世界を拒絶してただろう。
まだ、この世界は、君の居場所じゃないのか」
それは、安室さんが、今まで私と関わりのない人間が知る筈のない情報だった。
ぼろりと、涙が溢れた。
気のせいじゃなかった。
あの筆跡は、彼のものだった。
振り解こうとしていた腕から力が抜けて、彼の拘束も和らぐ。
「ずっと、ずっと気になっていた。
直接話したことはなかったけれど、君の姿を目で追っていた」
初めて、かも、しれない。
この精神状態で、彼の声だけは、不快じゃなかった。
「ひとが嫌なら、自然に、この国に、希望を見つけてほしかった。
だから、」
そうか。
だから、彼のメモはいつでも、自然を書き記してあったのか。
恐る恐る、自分の腕を持ち上げる。
私の腕にあった彼の手は解かれて、代わりに、手に添えられた。
持ち上げた先にある、彼の頬に触れる。
少しかさついた、年相応の男の肌だ。
それでも、その瞳は、今日も空色に透き通っている。
「今日も、空が、青いね」
彼がくれた最初の言葉を、震える声で呟くと、彼は苦しそうにしていた表情を、くしゃりと笑みに変えた。
安室さんとはまるで違う、不器用な笑みだった。
その後、私は会社を辞めた。
安室さん…基、降谷くんに「君があそこにいたとバレると危険だから」、と言われたから、連れてこられた部屋に匿われている。
彼は定期的に食料を持ってきてくれて、今までの仕事の代わりにリモートで出来る事務仕事を振ってもらっている。
左腕の傷はまだ消えないし、音も気持ち悪いままだけど、少し、こんな自分を認められるような、そんな気がした。
ドアノブが開く音がして、降谷くんが安室さんとは違う表情で立っている。
「おかえりなさい」
滅多に帰ってこないけれど、彼の家らしいのでそう迎える。
降谷くんは今日も、空色のような瞳を携えて、ただいま、とはにかんだ。