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この部屋にベッドを持ってくるのは少々手間だったので、大人しく上の階で寝てもらうことにした。
彼女の部屋にも護衛を付けているし、その部下に目が覚め次第このフロアに連れてこさせることにする。
そうすれば、日中は動ける人間がひとり増えるということも本音でいえば有難かった。
彼女とは特別会話をするわけではないが、時間を共有することになった。
暫くタブレットで仕事をしていた。
ガラスの内側にはソファひとつしかない事もあり動けず肩が凝る。
キリがいいところでタブレットを置いて肩を回していると、ガラスの向こうの彼女は持っていた端末を熱心に見ていた。
ひなさんの傍まで歩きガラスをノックすると、彼女は顔を上げる。
僕の手にある受話器を見て、ひなさんも同じように受話器を手に取った。
「もしもし?」
「…退屈じゃないか?」
そう聞いてみると、彼女は頭を振る。
「読んでなかった小説端から読んでるから、大丈夫」
なるほど。
熱心に端末を見ていたのは小説を読んでいたからか。
幾つか買ったはいいが読めていなかった本があるらしく、今はそれを消費しているところらしい。
「よかった。
…ひなさん、東都大出身だったろ?
あの中に学力テスト…というか、一般常識テストあるから受けてみないか?」
彼女が座っていた椅子の傍にあるタブレットを指差すと、彼女はむぅと眉根を寄せる。
「えー、もう覚えてないよ…」
「去年まで学生だっただろ。
ほら」
渋々端末を操作する彼女が、テストのファイルを開く。
目を動かしながら文字を打ち込んだり画面をタップしていた彼女がちらりと僕を見る。
「何でいきなりテスト?」
「どのレベルでひなさんと話していいのか、って思って」
言い訳を考えていなかった。
そう思って口の滑るままに答えると、中々失礼な言葉だな、我ながら呆れる。
ひなさんも似たような結論に至ったのか、なんとも言えない表情をしていて、それがどこか可愛くて思いがけず僕は笑った。
「冗談だよ。
それ、今僕も解いてるんだ。
一緒に答え合わせしよう」
同じ問題だと分かるように最初の問題だけアップにして彼女に見せると、彼女は呆れたように小さくため息を吐いた。
実はこれ、警察事務の筆記テストな訳だが…。
当然こんな所で受けたテストは非公式だし、何の効力も無いのだが。
…まぁ、いつか何かに使えるかも、ということで、百パーセントノリだ。
二人で話しながら問題を解いていると、何となく同じ学校で学んでいるような感じがして楽しい。
所謂一般的なオフィスでの仕事をしていない僕としては、彼女と仕事をしていたらこんな感じなんだろうか、とも想像していた。
「お仕事は?
大丈夫?」
ふと聞かれて、僕はあぁ、と頷いた。
「この中にいると、仮説を立てることくらいしかやることないからな。
後は溜めてた書類作成くらいだ」
このガラスの中では、ネットの海には潜れそうになく、部下が持ってきた資料を物理で受け取るくらいしかできない。
もう暫くすれば何かしら新しい情報を持ってきてくれるだろうが、今のところは待機だ。
「片付きそう?」
「大体は。
でも、ここから出たらまた報告書祭りだ」
あはは、と苦笑する彼女がカチ、とマウスをクリックして問題をひとつ解いた。
「…いつか」
「え?」
なんとなく口を付いた言葉だった。
なんて続けるつもりだったのか我ながら分からず、いや、と誤魔化す。
一瞬の思考の後、僕はタブレットを伏せて、彼女に視線を送る。
「いつか、君とゆっくり話せる時が来たら、その時は君の話を聞きたいな」
「私の話なんて、楽しいことないと思うけど」
「そんなことないさ」
彼女の言葉には反射で答えた。
彼女の考えや行動原理、知りたいことは山ほどある。
それに。
「萩原との出会いとか、ヒロに松田に、班長。
それぞれとのこととか、君が見てきた世界を知りたい」
えっと、と視線を彷徨わせる彼女とは急に視線が合わなくなる。
不快な思いをさせただろうか。
「…嫌か?」
思わずそう聞くと、彼女は真っ赤な顔で頭を振る。
「い、や…なんてことは、ないけど」
「じゃあ、約束だな」
そう言うと、彼女は今度は真っ赤な顔を縦に頷かせる。
「それじゃあ、降谷さんも、聞かせてくれる?」
「え?」
「諸伏さんと、あと、警察学校で出会った皆の話。
降谷さんからも、聞きたい」
まさか自分に同じお願いが返ってくるとは思わなくて、僕は目を瞬かせた。
僕と彼女の今までの会話の大半が安室としてのものだった。
同い年だからと思い早々に敬語は外したけれど、僕たちはお互いを知らないにも程がある。
そう、改めて思い知らされた。
「…分かった。
僕も話すよ」
そう頷くと、ひなさんは左手の小指をピンと立てて見せた。
まさかそう来るとは思わず、彼女の素直さにニヤけるのを堪える。
同じように左手の小指を立ててみせて、二人で空を握った。
「「指切りげんまん、嘘ついたら針千本飲ーます。
指切った」」
二人で声を揃えて、お決まりの歌を歌う。
小指にあった視線をひなさんと合わせて、クスクスと笑った。
笑いながら、にやけそうになったのを全力で誤魔化していると、彼女は唐突にあ!と声を張った。
「あのね、降谷さん」
「どうした?」
どうしたのかと思って目を見張ると、彼女は途端に手をぎゅっと握って言葉を紡ぐ。
「あのね、ギター、ありがとう。
降谷さんには、まだお礼言えてなかったから」
そう言われて、僕は思わず視線を逸らした。
僕には、と言うことは、当然ヒロと萩原には伝えたのだろう。
僕が商品を決めて、僕が全額支払い、でも、三人で購入したものだと伝えて欲しいと頼んだ、あの引越し祝いの礼を。
否、彼女のようなタイプが礼を言わないわけがないのだが。
「どういたしまして…」
今更ながら当時の自分勝手さを目の当たりにして、居た堪れない。
二人にどう思われているのか恐ろしいが、当然彼女にはそんなことは関係ないのだ。
さっきまでとは違いどうにか笑顔を形作ると、流石に彼女も違和感を覚えたのか首を傾げた。
「そうだ。
何時になるか分からないが、来客を予定してるんだ」
「分かった。
その時は、部屋戻ればいいかな?」
思わず話題を変えてしまったが、彼女は従順に頷いてくれる。
…本当に、申し訳ない。
「いや、君も居ていいよ。
君も知ってる人だ」
首を傾げながら、彼女はもう一度分かった、と頷く。
「君に、毎度のようにこうして不便をかけてるからな…。
君がまだ学生だったらここまで迷惑掛けずに済んだんだが…」
テンパっているが故に、己の欲望のままに話しすぎた。
気付いた時には言葉はもう吐き出してしまった後だったから、僕は慌てていや、と言葉を濁した。
「すまない、こちらの勝手な都合で話した」
「ううん。
私も最近は似たようなこと考えてた。
一応在宅勤務も出来るんだけど、総務だからずっとって訳には行かなくて…。
前準備も必要だし」
なんて、本当に、こちらに都合がいい思考回路をしている彼女に思わず有難くなる前に頭が痛くなる。
「降谷さん?
どうかした?」
「いや…」
自分の吐き出した言葉の意味を、自分で分かっていないらしい。
ひとつ溜め息を着いてから、僕は呟く。
「君は、優しすぎる」
「え」
「普通はそこで頷くんじゃなくて、巻き込まれてることを主張するタイミングだぞ」
「でも、」
「好きに生きて、普通に仕事して、自由に街を歩く権利を、君は、持っているのに。
奪っているのは僕たちの都合だ」
「私は充分好きにさせてもらってるよ。
だって、こうして、貴方の傍に居させてもらってるでしょ」
そう言い切った彼女に思わず目を見張る。
嬉しさと、さっきまでの気持ちと、収まりどころを見つけられない全ての気持ちを誤魔化すように、僕は深く溜め息を着いた。
「君は、全く、分かってない」
えー、と呟いた彼女の言葉は全力で無視することにした。