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梓ちゃんも退勤して、静かになった店内で、安室さんは食器を洗ったり明日の支度をしたりと手が止まるときがない。
小説を読みながら、懐かしい店内の音を聞いてると、音が止まって、人の動く気配も消えた。
ちらりとカウンターの向こうを見上げると、安室さんがじっとこちらを見ている。
「なにか、ついてますか?
私の顔」
そう聞くと、いえ、と彼は頭を振った。
「…誰か、知り合いに似てる気がして」
「ふふ、私は、安室さんみたいな笑顔が眩しいイケメンさんの知り合いはいないですね」
それが話題のきっかけとして放った言葉なのか、真意なのかは分かりかねた。
一応幼い頃、貴方に助けてもらった人間ですよ、と心の中で告げる。
諸伏さんと情報共有はしていないのかもしれない。
あはは、と笑う彼に、本当ですよ、と心の中で続ける。
私と彼は、“知り合い”ではないのだから。
少し、研にぃを彷彿とさせるその対話術が愛おしい。
四人が生きている今も、彼の中に四人の能力は詰め込まれている。
不意に、目頭が熱くなるのを感じた。
やっぱり、だめだ。
残っていた紅茶を煽って、私はオーダーシートを手に取る。
「ごちそう様でした…!」
仕事は終わってるんだ。
とにかく今すぐレジを打ってもらって、早くひとりになれるところに行かなくちゃ。
そう思って立ち上がろうとしたところで、彼の声が私を呼ぶ。
「ひなさん」
「え」
「不快でなければ、ここで気持ち吐き出していってください」
歪み始める視界の向こうで、彼が微笑む。
「そんな迷惑なこと…」
「もうラストオーダーの時間ですし」
そう言って、店の窓に掛かるOPENのプレートをCLOSEに変えて、ブラインドを下げる。
「そんな泣きながら外に出たら、また事故に遭うかもしれません。
そうしたら、また皆さん心配されますよ」
ね、という彼が。
ひとりだった、彼が。
今はひとりじゃない、彼が。
今、ここにいてくれる。
そんな事実が、ただ、胸を打った。
「っ………ひっく……」
流れた一粒の涙から、ぼろぼろと溢れてくる。
声を漏らさないように、カバンに入っていたハンカチを目に押し当てて、ただ、泣いていた。
彼はただ、何も言わず仕事をしてくれていた。
ただ、そのことが、彼がここにいることが、嬉しかった。
涙が落ち着いてから、私は小さく礼を言った。
冷えたお手拭きまで持ってきてくれて至れり尽くせりだ。
「ご迷惑おかけしました」
改めてそう言いながらお会計をしてもらう。
何も言わずに領収書を切ってくれてありがたい限りだ。
こちらはUSBと一緒に諸伏さんに横流しさせていただく。
恐らく私のことを共有せずに今日を迎えたのだろうから初回はこの頼み方だったのだろうが。
この出費は一般的な会社員の私としては痛い。
「さっき梓さんに言ってましたが、これからよく来てくださるんですか?」
「はい、梓ちゃんもあぁ言ってくれてたので」
「ありがとうございます。
まだバイト始めて日が浅いので、いろいろ教えてください」
ふふ、と笑う。
この完璧超人に私が教えることなんてなさそうな気はするけれど。
「では、失礼します」
ありがとうございました、と笑う安室さんに、また目頭が熱くなりそうだ。
「あの…今…」
ドアノブに手を置いたところで、ポロリと言葉が零れた。
私の言葉に、はい?と彼はどこまでいっても安室さんとして接してくれる。
言おうとした言葉を私は飲み込んで、小さく頭を振る。
改めて小さく息を吸って、溢れそうになった言葉とは違う言葉を口にする。
「“あなた”に、いつか聞きたいことがあるんです」
そう言うと、彼は察したように一度だけ、安室さんの仮面を外した。
「いつか、僕に答えられることなら」
そう言った彼は、すぐに安室さんへと戻った。
「お待ちしてますね」
にこりと笑う彼に、頷いて私は退店した。
ここは、街灯が明るくてあまり星が見えない。
それでも、いつもより綺麗に見えるのは、私の心の問題なのだろう。
自宅の傍に止まっている見慣れた車。
出てきたのは勿論諸伏さんだ。
「お疲れ様」
そう言った彼に、ポーチから取り出したUSBと領収書を渡す。
「緑川さん」
「初日、どうだった?」
あぁ、本当にずるいな、このひと。
そんなことを心の片隅で思いながら、クシャクシャな顔で笑う。
「ありがとうございます。
あのひとに、会わせてくれて」
私の言葉に、彼はどこか嬉しそうに笑った。