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私が不在の間に誰かが忍び込む可能性もある、という事で、直ぐに引越しや避難をするのは避けることにした。
直ぐにそんな行動に出れば逆に怪しいからだ。
いつも通り過ごして、家では何も話さない。
街中では何度か安室さんに遭遇したが、それが本人かベルモットか、私には区別が付かなかった。
誠心誠意、安室さんとの会話を心がける。
それを徹底していると、二週間ほど経った日に諸伏さんからポアロに行くようメールが来た。
珍しく時間指定付きで、指令も書いてあった。
閉店二時間前、私はひとりポアロに向かった。
「いらっしゃいませ!」
いつものベルの音と、降谷さんの…安室さんの笑顔に迎えられる。
どうやらシフトはひとりのようだ。
カルボナーラと食後にカフェオレを頼むと、彼はいつも通りかしこまりました、と笑った。
小説を読みながら食事を待って、サーブしてもらったパスタに舌鼓を打つ。
目の前のこの人は、本当に降谷さんだろうか。
そんなことを思いながら落ち着かない心をどうにか紛らわしていた。
いや、でも仕事のあれこれを考えれば当然降谷さん本人なのだろう。
食事を終えたあとはいつも通り美味しいカフェオレを頂く。
いつも通り降谷さんが接客をしていると、ひとり、男性の来客だ。
記憶が正しければ、私が勤めていた頃には見かけたことの無いひとだ。
コーヒーを頼んだ男性に降谷さんはいつもの様にいい香りのコーヒーを入れてサーブした。
「そういえばひなさん、お忙しいって前に言ってましたが落ち着きましたか?」
「あ、はい。
おかげさまで。
来週くらいからはまた前みたいにお店来れそうです」
心は全く追いついていないが、外で会う“安室さん”に落ち着けないならこうしてポアロに来て話した方が落ち着くというものだ。
「それはよかった。
梓さんとマスターも心配してましたよ」
「わー、すみません。
…ふふ、まさか安室さんうちに来る程心配してくれてたとは思わなくて…びっくりしちゃいました」
指令とは、話の流れであの日家に来たことを告げること。
降谷さんがなんと答えても、あの日来たのは安室さんだと信じて会話を続けること。
「…え?」
「え?
来ましたよね、私の家。
二週間前、かな?」
目をぱちくりと瞬かせる降谷さんにえぇー、と呟いた。
「忘れちゃったんですか?
もー、探偵の名が泣きますよ。
いつもそんなことまで?ってことまで覚えてるのに!」
いつもの自信満々な降谷さん姿を思い出してクスクスと笑う。
ドヤ顔で高説垂れる姿は可愛くてかっこいいのだ。
「あ…あぁ、そうでしたね!
僕もちょっと忙しくてうっかりしてました」
「ふふ、安室さんもうっかりすることあるんですね」
「僕も人間ですから」
絶対嘘だ。
降谷零はそんなことにはならない。
少なくとも、仕事が絡んでいれば、絶対。
「少しは人間味があってよかったです。
安室さん、人間離れしてるくらいすごいひとってイメージですから」
そう言うと、えー、と彼は眉尻を下げて笑った。
「僕も、同じ人間ですよ」
「はーい」
二度目を言われて、私は素直に頷いた。
なんだろ、なんとなく意図を感じる言葉だけど。
…聞ける訳でもないし、気の所為ということにしておこう。
「そういえば、亮くんがまた今度ポアロ来ようかなって」
「亮、さん…は、前に一緒にいらっしゃった方ですか?
あの…ひなさんの“お兄さん”たちと一緒に」
「あ、そうです」
指令の二つ目は緑川さんの話をすること。
どんな話し方でもいいから付き合ってる体で話せとの事だった。
手をぽんと合わせて答える。
「すみません、あの時別に紹介とかもしてなかったですよね。
チャラいのが亮くんって言いまして、一応…彼氏、です」
「お付き合い始めたんですか?」
目を丸くする降谷さんにはい、と頷く。
「随分前に告白はされてたんですけど、先月から」
「おめでとうございます。
マスターとか聞いたら赤飯炊いてくれるかも知れませんね」
「イヤ!ほんと、恥ずかしいので誰にも言わないでください!
マスターとか半分親ですし、梓ちゃんにも絶対!」
ふふ、と笑う彼に手を振って断ると、梓さんもですか、と首を傾げる。
「もー絶対からかわれるじゃないですか。
安室さんはそういうこと言わないだろうなって思って伝えただけですから!
周りの人誰にも言わないでください!
亮くんにも誰にも言わないでってお願いしてるので!」
いつだかみたいに顔の前で大きなバツを作って訴えると、彼は面白そうに笑った。
「わかりました。
誰にも言いません」
「お願いします!」
そのあとは時事などの雑談をしていて、暫くするとコーヒーを頼んだ男性が退店した。
私を除くと客は彼しかいなかったので、誰もいなくなる。
「ひなさん、ラストオーダー過ぎてるので窓閉めちゃってもいいですか?」
私が元店員ということもあって、梓ちゃんも降谷さんも普段から特に断りなく閉めている。
敢えて聞いてきたということは、聞かせたい相手が居たのだろう。
「もちろん。
私のことは気にしないでください」
「ありがとうございます」
そう言って笑った彼はブラインドを下げて、口元に人差し指を持ってくる。
その仕草に頷いて返すと、彼は各テーブルの閉店作業を進めた。