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ある日、ベルモットに呼び出されて駅前に出た。
駐車場まで並んで歩いていると、少し離れた正面からひなさんの姿が見える。
買い物に出ていたのか、紙袋をいくつか肩に下げて視線はスマホだ。
人通りの多い街中で視線が下なのは危ない。
横にいるのが梓さんだったら声も掛けられたが、さすがにそうはいかない。
僕は視界に入ったひなさんから意識も外した。
視界に入った彼女を意識した素振りは出したつもりはなかった。
ひなさんは組織と関わったことは無いし、ベルモットに気付かれるつもりはなかった。

「今の子…」
「はい?」
「あなたが潜入してる喫茶店の子でしょう?」

彼女の何かが、ベルモットの琴線に触れたらしい。
“喫茶店の子”ということは、おそらく蘭さんと仲がいいことは知らない。

まぁ、ベルモットの場合は蘭さん、そしてコナン君が無事であれば他はどうなっても構わないだろうが…。

「正確に言えば、元店員、ですが」
「ふぅん?」

楽しげにそういう彼女がどこまで僕の言葉を信じるかはわからないが、このままひなさんから興味を失ってくれればそれでいい。
僕が下手に反応すれば、余計興味を持つだろう。

そう思い、僕はそれ以上リアクションは取らなかった。

そのまま車に乗り、任務帰りだという彼女と食事をしてホテルまでの足になる。
何のために呼び出されたのかはさっぱりだが、ひとまず今日は何も無かった。
それは組織を潰すため、そしてこの日本が平和な明日を過ごすためにはありがたいことだと、僕は帰路に着いた。



何の因果か、それ以来ひなさんがポアロに来る機会が減った。
僕がポアロで働き始めてから、怪我をしている時以外は数日ごとに来ていたことを考えると、一週間に一回以下というのは随分少なかった。

梓さんはドアベルが鳴る度にドアの方を見て、ひなさん以外だとわかると悲しそうに眉尻を下げている。
その様子を見て、ヒロにも確認してみたが、特に情報はないそうで、通常通りの日常を過ごしていると思っていたそうだ。

そして、もうひとり。
蘭さんが数日に一度、ポアロの扉を開くようになった。
今まで店内に入ることはなくても、ガラス越しにひなさんの様子を見ていたようで、最近見かけることが少なかったことに心配しているようだ。

「安室さん、今日はひなちゃん…」

彼女の言葉に、僕は頭を振る。
すると、彼女はそうですか、と梓さんと同じように眉尻を下げる。

「今週、来てないですよね…」
「はい。
ずっと日を開けずに来てくださってたので、梓さんも心配してて…」

ですよね、と呟く。

「…最近、思い出すんです。
ひなちゃんが初めてポアロに来た頃のこと」
「ひなさんが…?」

彼女とポアロの関係は、梓さんの先輩だということしか知らなかった。
蘭さんは、ポアロに客が居ないことを確認してからぽつりと呟く。

「ひなちゃんが、記憶喪失だったこと知ってますか?」
「えぇ」
「…ずっと、どこにいるのかわからない目をしてたんです」

両の手のひらを胸の前で組む。
その手はカタカタと震えていて、その想いが深刻なことが分かる。

「いつか、目の前から居なくなっちゃうんじゃないかって。
この間見かけた時、あの頃と同じ目をしていた気がして…」

僕は、記憶喪失のひなさんを知らない。
僕が出会った時にはもう彼女は記憶を取り戻していて、他の人と変わらないように感情を表に出す人だった。
僕には少し遠慮はあるが、蘭さんが言うような、いなくなってしまうような様子は見たことがなかった。

「ひなちゃん、居なくなっちゃったら…どうしよう」

きっと、その言葉は、この数週間で音にしないようにしていた言葉だ。
上の階で、時折妙に聡い父親と、異常な程に察しのいい少年に囲まれて、気を張っていたのだろう。

「そんなことはさせない」

答えたのは反射だった。
蘭さんはぱっと顔を上げる。

「僕には、その頃のひなさんのことはわかりません。
でも、蘭さんも、梓さんもマスターも、ここに通う皆さんも、全員ひなさんのことを大事に思っているのは知っています」

それはヒロも、萩原も、松田と伊達も。

もちろん、僕も。

彼女がここから居なくなることを望む人なんて、どこにもいない。

「ひなさんがここから居なくなるなんてことは、絶対にさせない」

僕が言った言葉に反応するように、蘭さんはパチパチと目を瞬かせたあと、くすりと笑った。

「安室さんが言うと、大丈夫な気がしてきます」
「その言葉に応えられるように、僕も気にかけてみますね」

蘭さんは、まだ少しぎこちない笑顔でありがとうございます、と笑った。







自分の意思では来ないが、“仕事”を頼めば来てくれる。
その日は、一週間ぶりの来店だった。
仕事が始まる十三時五分前、僕がバックヤードから出るとひなさんはいつも通りカウンターで本を読んでいた。
目の前に立ってみると、彼女はすぐに気付いて顔を上げた。

「こんにちは、ひなさん」
「こんにちは、安室さん」

にこりと笑って挨拶をすると、同じように返してくれる。
その笑顔は少しぎこちない。

「なんだかお久しぶりですね」
「はい、ちょっとバタバタしてて…」

元々あった距離よりも遠く離れたように感じるのは気のせいではないだろう。
表情を見れば少し疲れているようにも見える。

「ちゃんと休めていますか?
確かに疲れていそうですね」
「ふふ、自分が要領悪くてバタバタくしてるだけなので、大丈夫ですよ」

少し眉尻を下げて問うと、彼女は作った笑顔で答える。
その笑顔が気に入らなくて、思わず眉間に皺を寄せた。

「体を壊してからだと遅いんですよ」
「安室さんこそ、探偵のお仕事とポアロのバイト、大変でしょう?
体調気をつけてくださいね」

今は僕の話をしていない。
ただ、彼女を心配しているだけだ。
それなのに、彼女は、僕が一歩踏み込むことを厭う。
なんて返そうか一瞬思案すると、彼女は腕時計をちらりと見た。

「あ、一時!」
「…用事ですか?」

慌てた様子でカフェラテを煽った彼女に問うと、彼女は伝票を手に取りながら頷く。

「はい。
お会計お願いします」

声をかけてもらったからそのままレジを操作すると、ひなさんはお釣りが出るように金額をトレーに出した。
お釣りの小銭と一緒にUSBを渡すと、彼女はさっと財布に入れて鞄にしまった。

「ひなさん。
本当に、無理だけはしないでくださいね」

その様子を見届けたあと、振り返ろうとした彼女に言うと、僕の思いに気づいてくれたのかひなさんははい、と頷いた。

「ご馳走様でした」

それでもその表情はやっぱり一線を引かれたもので、彼女が来ない原因が自分にあるのではないかと勘繰ってしまう。
カラン、といつもの音を立てたドアベルが 、やけに虚しく響いた。



その日、深夜にヒロから連絡がきた。
データの件かと思えばまるで違った内容に、僕はセーフハウスで思わず声を荒らげた。

「僕に変装した誰か?」

あぁ、と電話の向こうでヒロが頷く。

「すぐに変装に気付いてくれたみたいで、相手には何も言ってないって。
ただ、俺も丁度その安室の姿をした人間と会ったから、今までよりも少し親密な態度にしておいた」

正確には、ベガがしてくれたんだけど、とヒロが呟く。
彼女はどうしてこうも聡いのか。

恐らく変装していのはベルモットだろう。
ということは一般人に気付かれるようなヘマはしないだろう。
ひなさんがどうして気付いたのかはわからないが、僕ではないことに気付いてくれたのは本当に助かる。
万が一にも降谷と呼ばれていれば、僕はヒロ以上に隠れなければならなかっただろう。

「何処で会っても、絶対に安室として接するよう伝えたよ」
「あぁ。
僕も気をつけるよ。
相手の方は、勘繰られない程度に探ってみる」
「無茶はするなよ」

ヒロの言葉に頷いて、その日の通話は終えた。