1
ひなちゃんがゼロの家を出る日、俺たちは注意事項を彼女に伝えた。
知らない人に着いていかない、知ってる人に違和感を持っても突っ込んでいかない、知らない人から食べ物を貰わない、帰ってきたら手洗いうがいをすること。
エトセトラ。
彼女は幾つかの深刻そうなことだけ真面目に聞いて、後半は呆れた顔で流していた。
でもね、これもちゃんと注意する理由があるんだよ。
体調が悪ければ、元気なら逃げられる変質者からも逃げられないだろ?
ひなちゃんを家に返す前に、彼女の家は念の為盗聴器等の有無を確認した。
だが、今も不安がないと言えば嘘になる。
もう相手に住まいが割れているのだ。
僕もゼロも萩原も思いはひとつ。
はやく、彼女に安全な住処を。
ゼロに公安から繋がる安全な家を幾つかピックアップしてもらって、三人で相談して一箇所を選ぶまでに約一ヶ月。
本当なら自宅に返す前に、遅くても一週間程度で決めたかったところだが、掛かってしまったものは仕方ない。
兎にも角にも家が決まったのなら、一日も早く引越しをするだけだ。
ちょうど明日から三連休だ。
明日は遠出するとひなちゃんが申告があったから、帰ってき次第荷詰めを開始することにして、他の算段もつけた。
ゼロには指示出しを風見さんを通してやってもらったし、引越し当日の警護兼現場監督は萩原。
俺は前日までと公安が撤退してからフォローすることに決めてそれぞれ動き始めた。
金曜の夜、彼女の新居に足を運ぶとゼロが寝室に居た。
俺の気配に気付いたゼロが俺を視界に入れたあと、眉尻を少しだけ下げた。
ゼロの手元にあるのはギターだ。
【僕とヒロ、萩原から】。
その体で贈らせてくれ、と言われた、ゼロと同じメーカーのアコギはゼロのそれと似た音色を奏でる。
「いい音だな」
「あぁ。
僕のギターの後継機らしい」
ゼロが持つものは学生の頃に買ったもので、新たに買い換えてはいない。
ゼロ曰く、演奏するのは好きだが音楽の道を志していた訳でもなく、あの音が好きだから買い換える必要も無いそうだ。
ひとつ愛したものを大切にするこいつらしい。
それは、警察学校時代に気に入って、購入してから変えない車にも言えることだ。
前にピアノを贈ろう、という話を彼女も含めてしたこともあるが、ここでギターだったのは、彼女があの日、ゼロの演奏を聞きながら、穏やかな眠りを得られたからだろう。
<ゼロの演奏だったから>。
その考えに行き着かないあたり、察しがいいのか悪いのか。
それはまぁ、二人共に言えることだけど。
「引越し、頼んだぞ」
現場にはいられないゼロに言われて、もちろん、と返す。
俺たちの神様は、俺たちが守る。
思いの根源はそれぞれ違くても、その気持ちに違いは無い。
ゼロはギターの演奏を終えて静かにスタンドに戻してから、家を後にした。
翌日、ひなちゃんが帰ってくる時間を見越して部屋で待つ。
この部屋にも幾度となく足を運んだが、これで見納めか、と思うと少し感慨深い。
冷蔵庫の中身が多かったから、明日は打ち上げをしてもいいだろう。
…打ち上げとなると、逆に量が足りないかな、と苦笑した。
ガチャ、と鍵の開ける音が聞こえて俺はぴらりと紙を手に取った。
おかえりもそこそこに、驚きを通り越して呆れている彼女に声を掛ける。
「ひなちゃーん、この部屋引っ越そーぜ!
変なことがあった家に居ちゃマジだめだから!」
何となく緑川亮のテンションで言ってみると、彼女はその呆れた表情のまま、目を細めた。
あはは、チベットスナギツネみたいだ。
「もちろん、拒否権はないよ?」
「わかってるよ」
ゼロの家を離れる時に引越し先を探す話はしてあるから彼女の返事も早い。
「でもさぁ…普通下見とかさぁ…」
渡したペラ紙を眺める彼女に笑顔の種類を変えてみると、ふと顔を上げた彼女は眉の形を歪ませた。
「ごめんな!
俺達は、ひなちゃんに一分一秒でも長くここに居て欲しくない。
これでも時間がかかりすぎていやになったくらいだよ」
選定に一ヶ月も掛けたくなかったし、可能ならここに泊まり込みたかったくらいだ。
恐らくベルモットの興味は失った…とはいえども、安全とは限らない。
ゼロも言っていたが、それには俺も激しく同意だ。
「ちょうど三連休で、明日明後日休みだろ?
明日荷造りして、明後日引っ越すから、よろしくね」
「そういうことは先に言って!!」
目を見開いて怒る彼女に、また軽く笑う。
こうして許してくれちゃうから、俺もゼロも萩原も調子に乗るんだよ。
まぁ、それを伝える気は無いけど。
夜、そして目が覚めてからも二人で荷物をまとめていると、チャイムが響く。
ドアの向こうの賑やかさから、予定通り来てくれたのだと察するがひなちゃんは少し煩わしそうに玄関へと向かった。
「急な引越しだって聞いたから手伝いにきたよん」
扉を開けた音の後に萩原の声が聞こえる。
その声を聞いてから玄関に向かうと、よ、と萩原が片手を上げたから俺も上げて返した。
そうしている間に、萩原の奥にいる松田の表情が歪む。
ひなちゃんの顔を見ているようだから、恐らく松田が作業の邪魔をしないか邪推したのだろう。
ずい、と松田が萩原の前に出て、彼女の頭をガシガシとかき混ぜた。
「ちょっとー!」
ひなちゃんは不服そうではあるが、すぐに軽やかに笑い始めるので、周りも表情を緩めた。
よし、と気を取り直すように班長が声を張る。 その声に、懐かしさとちょっとしたおふざけから俺と萩原、松田はぴっと背筋を伸ばした。
「諸伏はキッチン周り、ナタリーは洋服、松田と萩原はプライバシーに関わらないような雑貨。
ひなちゃんは貴重品や見られちゃ困るものを片付けつつ捨てるものがあったら確認してくれ。
俺は重いものを中心に片付けていく。
いいな」
三人で号令のごとくいい返事を返せば、にやりと四人で口角を上げる。
その横で、緩い返事をした女子二人とのギャップに、俺たちはまた笑った。
六人もいれば作業も早く終わるもので、夕方には粗方片付いていた。
班長とナタリーさんに買ってきてもらった追加の材料と冷蔵庫の中身を駆使して夜のつまみも作っておけば今日の俺の仕事は目処が着いた。
食事を終えたあと、萩原とひなちゃんの三人で松田と班長、ナタリーさんを見送れば、ひなちゃんはジトっとした目で俺達を見ていた。
そんなひなちゃんを風呂に追いやって、萩原と一息ついた。
「お疲れさん。
何かあった?」
そう聞かれて、いや、と答える。
「荷物にも変なものは紛れてないし、来客もない。
平和なものだったよ」
「そりゃーよかった。
明日は引越し終えたら連絡すればいいんだよな?」
ほっとした表情の後、すぐに真面目な表情へと変えて明日のことを聞かれたから、それには頷く。
明日の引越しスタッフは公安が扮することになっている。
いくら変装してると言えど俺はいない方がいいだろう。
協力者として名を連ね始めた現役警察官をやっている萩原の方が適任だ。
萩原は午後から登庁することになっているから、そのあとは俺がまた暫く護衛をして、何事もなければ日常に戻ることになる。
彼女の隣の部屋は俺のセーフハウスのひとつなので、きな臭い時は詰めることになる。
現状、セーフハウスの件はひなちゃんには秘密だが。
明日の職員のチェックや何件か確認を終えてから、そういえば、と昨日ゼロに会ったことを思い出す。
「ギターの件聞いてる?」
「あぁ、三人からっていう体で…だろ?」
俺たちから贈りづらくなるじゃんよ、と苦笑する萩原には全面的に同意だ。
「諸伏ちゃん、オタクの幼馴染みそういうとこ鈍いよね」
どうにかして、と言外に言われるが、できるものならとっくにしているし、あの二人の仲もとっくにどうにかなってるだろう。
「無茶言うなよ。
ゼロだよ?」
その言葉に、二人で苦笑した。
そこからはなんとなく雑談をしていたが、ふと風呂場からやたら騒がしい音がして俺達は目を合わせた。
彼女の精一杯の誠意と気遣いが可愛くて愛しい。
そして今回はそのわざとらしさに堪えられなくて、二人で笑った。