2
ひなちゃんに声を掛けられて、俺はその日ひなちゃんの家に居た。
彼女の昨日の様子から、少し焦ったような空気を感じたこともあり、ひとまず落ち着かせようと食事を用意する。
彼女の退勤時刻は聞いているから、帰宅時間に合わせてダイニングにあるローテーブルに皿を並べる。
ゼロはダイニングテーブルを用意しようと思っていたようだけど、俺と萩原がひなちゃんは床に座る方が好きだと言ったからローテーブルとソファを見繕ったようだ。
部屋の調度品、まさかゼロが選んで用意したとは思ってないだろうなぁ。
なんて、いつか教えてあげようと思ったことを心の中で思い返してくつくつと笑う。
ネタばらししたときのひなちゃんの反応が楽しみだ。
玄関の扉が開く音がして、俺は顔を出した。
おかえり、と迎えた後に彼女に問いかける。
「どうしたの、ひなちゃん」
一瞬惚けた顔をした彼女は首をブンブンと振ってからずい、と体を乗り出して声を張る。
「あの、諸伏さんのお兄さんについてお話が…!」
まさか、彼女の口から俺の兄の話が出てくるとは。
前を警戒していたら後ろから押されたような、そんな展開に俺は誤魔化すように笑った。
「取りあえず、食事終わってからにしようか」
二人で食事をしてから、ひなちゃんをお風呂に押し込めてひとりの時間を確保する。
一体全体どんな話が出るのか。
まさか、兄さんが死ぬ、なんて話題は出てこないよな。
そんな不安から手が震えるが、そもそも俺たちの件で彼女は数年前から奔走していたのだ。
兄さんの命に関わるのなら、もっと早くに声をかけてくれるだろうと思い至ってから、俺はようやくひとつ息を吐いた。
お風呂上がりの彼女と向かい合ってみれば、彼女も帰宅直後より落ち着いたのか、表情は少し穏やかだった。
「それで?」
俺が聞くと、ひなちゃんは一度深呼吸をしてから、手のひらをぎゅっと握って俺を真っ直ぐに見つめた。
「諸伏さんのお兄さんは、諸伏さんの現状を知ってる?」
彼女のその言葉を聞いて、俺は酷く安心した。
そんな訳ないと思いながら、信じながら、どこかで恐れたのだ。
たった一人の家族が、居なくなることを。
「いや、最後に警察を辞めるって連絡をしてから特に連絡はしてないよ」
なんでもない風を装って答えれば、今度は彼女があの、と言葉が煮え切らない。
そこで、察した。
兄さんは“物語”に関わっている人で、“俺の死を知っていた”のだと。
たったひとりの家族に、死を伝えることを、彼女は慮ってくれているのだと。
難儀だな、と思った。
情がなければ、物語を知らなければ、こんな苦悩を抱かずに済んだのに。
でも、知ってたから彼女に出会えた。
俺達は、こうして生きている。
「兄さんに俺が死んだように錯覚させる、か…。
なかなか骨が折れそうだな」
そう呟くと、彼女は表情を歪める。
君はそんなことで悩まなくていいんだ。
そう言うように、俺は笑った。
「本当だったら、こうして悩むこともできなかったんだろ?
なら大丈夫。
…ちゃんと全て終わらせて、会いに行くさ」
強がりも、ある。
でも、そうしたいと言う、紛れもない本音でもある。
ひなちゃんは逡巡したあと、下手くそに笑う。
「私も、会いに行っていいかな」
「もちろん」
よし。
あの策士を罠にかけるのだ。
それ相応の準備が必要なのは言うまでもない。
俺達は、話し合いを始めた。
ひなちゃんが鈴木財閥のご令嬢にフェアリーリップの展示を朝イチで見させてもらうと聞いて、俺も便乗することにした。
その場には兄さんも来ると聞いていたが、話さなければいいのだ。
兄さんの様子を部屋の隅から見て、帰る。
それだけだ。
そう思っていたのに。
ひなちゃんと二人で宝石を見ていると、聞いていた通り兄さんが展示室に現れた。
いつから好きになったのか、三国志の一節を口にしながら、相変わらずの様子である。
その事が嬉しくて、久々に見た兄に気付かれない程度に、俺は兄さんを視界に入れた。
すらりと綺麗な佇まいも、俺とは違う低い声も、相変わらず俺が尊敬する兄のままだ。
この兄に、俺は、自分が死んだと伝えるのか。
兄がそれを知るのは明日だそうだ。
兄は、どう思うだろう。
聡い兄には公安所属であることもすぐバレそうではあるが、俺の“死”に悲しむだろうか。
父も母も、あの日、俺達は失った。
二人きりの兄弟だ。
改めて連絡を取る機会は少なかったが、唯一の繋がりだと俺は思っていた。
それでも。
悲しませても、苦しませても、成し遂げなければならない事が今の俺にはある。
願わくは、再び兄さんと会えた時に、昔のように兄弟でいられますように。
そして、横にいるこの子が、これ以上悲しまずに済みますように。
それとなく兄さんに背を向けて、下にあるひなちゃんの顔を見て表情を歪める。
「…ごめん、思ったより、」
そう呟くと、彼女はその瞳をぎゅっと細めた。
そして、何でもないように微笑むのだ。
「うん、帰ろ」
そう言って俺の腕をぽんぽんと叩くその温もりに救われてるなんて、彼女は気付かないのだろう。