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人気の大水槽の前で、彼女はすごい、と呟いた。
またいつもの感情を出す振りだろうか。
言外にそんな演技はしなくていいと伝えたつもりだったが。

「スティル、」

改めて伝えるか、と思った彼女の視線は、大水槽から外れない。
水槽からの僅かな光を目いっぱいに輝かせている。

彼女の感情が動いたのを、初めて目にした。
あぁ、やっと、彼女に会えた気がした。

暫く遠くから眺めていた彼女の手を引いて、水槽の近くに寄る。
水槽に両手をついて中を見回す彼女が小さな子供のようで、僕は口元に手を当てて、彼女に気付かれないよう笑った。



水族館でわずかに感情を見せた彼女は、嘘かのようにいろいろな質問をしてきた。
僕自身のことや、人間関係のこと、そして感情や感覚のこと。

「ねぇ、バァボン、バァボンは何が綺麗だと思うの?」
「綺麗…ですか?」
「そう!
バァボンにとっての綺麗はなに?」

僕にとっての、綺麗。
それは、この日本で見るすべての景色だ。
日本らしい和の景色も、海や山の景色も、国民が笑っている姿も。
その景色を見れることが、幸せで、尊いと思う。

だがもちろん、そんなことを彼女に言えるわけがない。

「もしも君が、感情のままに笑ってくれたら、きっと綺麗だと思いますよ」

きょとん、と目を瞬かせる。
そのあと、いつもと同じ感情のない目で微笑んだ。

「面白いこと言うのね、バァボンって」
「おや、本当ですよ」

ふふ、とまた表情だけは面白そうに、いつものように笑った。



先月の内に、盗聴からは解放されたので、風見とのやり取りを再開していた。
近日中にキュラソーから得た情報を手掛かりに大規模な組織殲滅戦が行われることになったらしい。
僕は直前までバーボンとして動き、スティル、そして組織を欺くことになっている。

彼女も当然殲滅される側。
だが、このまま彼女との生活を続けていればキュラソーと同じように情報提供者として捕獲する予定だ。



水族館から帰った後、食事と入浴を終えた後、最近はラグの上で寝ていた彼女が僕のベッドの上にいた。

「何してるんですか」
「バァボンがいつもベッドで寝てるから、寝てみようかと思って」

そうですか。
背を向けてソファで寝ようとすると、彼女がバァボン、と名前を呼ぶ。

「一緒に寝よ?」
「は?」

まさかそんなことを言われると思わず、つい声を零してしまった。
そんな僕を見て彼女は面白そうに笑う。

「ふふ、面白い顔」

本当に面白いと思っているかどうかは、正直微妙だ。

「ベッドで、ひとりで寝るのは怖いから」

そう言って僕の腕を引きに来る。
その仕草に色はなく、子供のようだと心のどこかで思った。

この娘はわかっているのだろうか。

僕が男で、君が女だということを。

君が僕の親友の仇であるということを。

君が組織の人間で、僕がNOCだということを。

狭いベッドの中で、手だけを握って眠る。
あぁ、彼女が親友の仇ではなくて、組織の人間でもなかったら。



僕は、どれだけ嬉しかっただろう。



翌日、目が覚めたとき、彼女はこの家からいなくなっていた。