その日は闇の魔術に対する防衛術の授業だった。新任の教師であるリーマス・ルーピンはホグワーツ特急の中でチョコレートを配りながら歩いていた冴えない男性で、どうやら見た目に似合わずかなり楽しい授業をするのだとか。そうハンナが、シアの隣でどこからか仕入れてきた噂話を披露する。
それを聞き流していると当のルーピンが教室に入ってきて、ぴたりと声がやんだ。しかしそこにあるのは図書館で横たわっているような静謐さではなく、どこか興奮した静けさだった。みんなの視線がルーピンに向かっているのが、容易に肌で感じられた。
初回の授業はボガートだった。目の前に立った者の一番怖い物に化ける魔法生物で、退治するには怖くない姿に変身させることが有効らしい。ちなみに複数人が前に立てばどれに変身して良いのかわからず、戸惑うとのこと。
そんな説明を聞き、呪文を練習したところで実習が始まった。蛇や蜘蛛などの生き物に変わる人もいれば、知り合いの人物に変わる人もいる。とにかく人それぞれで、ボガートを退けるために呪文を唱え面白おかしい姿に変えるたび、教室は笑い声に包まれた。
そしてシアの順番がやって来た。目の前に立った途端、ボガートはくるくると変身し始め、それを興味深く見つめる。何せ、シアは怖いもの、と言われても何も思い浮かばなかったのだ。今まで一度も恐怖を――というよりは感情を――感じたことがない。はたして自分が無意識のうちに恐れているのはなんだろうか……
そんなことを思っていると、少ししてボガートは――
「……ネズミ?」
小さなネズミだった。しかし体の半分がぺちゃんこに潰れており、内蔵が飛び出している。ひゅっ、と、後ろにいるハンナが息を呑む音が聞こえた。
自分が恐れているのはこんなものか……と思いつつ、シアは「リディクラス」と唱える。途端、ネズミが美しい大輪の花となった。赤色になったのは、先ほど見てしまった血の名残だ。
淡々と終えると、次はハンナの番になる。彼女が前に立つと、ボガートはすぐさま先ほどの――ネズミの死体となった。それも寸分違わない姿で。
おや?と思っているうちにハンナは「リディクラス!」と呪文を唱えて、ネズミの死体はすぐさまびっくり箱になった。どことなく違和感を覚えながらも、ハンナが退いたことによってボガートがまた変身を始め、そのおかげでみんなが抱いたであろう引っ掛かりは流されてしまった。
ハンナはシアのそばにやって来ると、「びっくりしたわ」と言う。
「まさかあなたもあれが苦手だなんて……本当にびっくりよ。私ボガートに二回も相対した気分だわ」
「…そう」
「そうなのよ!……それにしても、どうしてシアはあれが苦手なの?私は――」
仲間意識を感じたのか自分の過去を話し始めるハンナに、シアはただ静かに相づちを打つだけだった。
何か、引っかかる。そもそも自分の恐ろしいものは本当にあんなものなのだろうか?……否、絶対に違う。感情を抱いたことのない――少なくともそう認識している――シアだが、それだけはどうしてか確信を持って言えた。
だからこそ何かがおかしくて。
ハンナの話を右から左に流しながら唸っていると、しばらくして授業が終わった。ルーピンの総括のあと宿題を出され、そのまま解散となる。ざわめく室内。人混みに紛れてシアも教室を去ろうとしたところで、すっ、と横を半透明の影が通り過ぎていった。振り返れば、リドルが難しい顔をしてボガートの入った洋箪笥を見つめている。
人混みによってハンナと引き離されたように演出して、シアは彼の隣に立った。
「どうしたの?」
「…いや、なんでもない」
そう言うリドルの顔は厳しく、何か考え込んでいるようだった。
リドルは先ほどのボガートを思い出し、考えていた。シアと混ざっているからこそ、よくわかる。彼女は真実何に対しても恐怖を感じておらず、ボガートがあんなものに化けるはずなどなかった。それなのにボガートはネズミの死体に変わった――後ろにいた、ハンナと同じものに。
もしや、と思う仮説はある。しかし、それは、ありえないことで……
「………僕ならできるかもな」
ぽつりと小さくつぶやく。本当に、本当にわずかな可能性。だけど、もしそれが真実だったならば、この少女は――
ちらりと、横にいる自分と瓜二つの少女を見下ろす。シアはこて、と首を傾げていて、その長い黒髪がさらりと揺れていた。昔はざっくばらんで手入れもされていなかった髪だが、リドルが夏休みの間に魔法を教え、近ごろは常に光を反射するほどまでになっていた。自分と同じ顔立ちの少女が見窄らしいのが気に障って。
「リドル?」と声をかけられ、今度こそリドルは姿を消した。彼女の正体。確信を持つためには、情報を集めなければならないだろう。
けれど――もしそれが真実だったとして。彼女に現実を突きつけるのには、ちょっとだけためらいがあった。
それくらいには、リドルもシア・ランドールという少女に情を抱き始めていたのだった。