部屋の扉を閉めて、冷たい床に座り込む。腕が、こめかみが、背中が、痛い。足の裏はじっとりと汗ばんでヒリヒリとしみる。ゾッとするほど浅い溜息が出た。
 汚く湿った服を脱ぎ捨てて、下着のまま布団に包まる。白いシーツを手繰り寄せると、まるでマーリンに触れているみたいだ、と少し口端が上がった。
 香水でも買ってみようかな、と枕元に捨てられたスマホに手を伸ばす。けれど美しく飾られた写真の羅列を見ても何も楽しくなくて、カチリと電源を落とした。
 声も姿も見えない。寂しい。花を纏って現れて欲しい。声だけでも、気配だけでも、ほんの少しだけでいいから彼に会いたかった。

 掠れる喉の痛みに目を覚まして、あまりにも光が目に痛くて照明を落とす。布団を跳ね除けて手探りでスマホを引っ張り出す。
 ぼんやりと薄暗い明かりに、真横で浮き上がった塊に飛び退いた。
 ぼわ、と足元が淡く光る。
「こんばんは」
「怖……」
 会いたかったけれど、こんな現れ方をするならいらなかったな、などと失礼なことを考える。
 容姿がはっきり捉えられるのは、数日前に夢に出てきたからだろうか。それとも疲労のせいなのか。
 花の灯りを写して虹色に彩られた髪の毛を見詰めた。裾ギリギリまで下ろされた束にそっと手を伸ばす。思っていたより柔らかい。
 衝動のままに髪の毛に顔を埋めて息を吸い込むと、何してるんだい、と笑う声が聞こえた。
「ご、ごめん」
 別に構わないけどね、と言いながらマーリンはベッドの端に腰掛ける。
「ところで、キミはまだ寝ないのかい?」
 先程まで寝てしまっていたから、と話すと、ごろりと長身を横たえたので驚いて布団を被せる。
「何…」
「私が添い寝してあげようと思って」
「いっっらないよ!!」
 おいでおいでと手招きされて、目線をおろおろと彷徨わせる。床に張り付いた服を見て、慌てて口を開いた。
「シャワー浴びないと!じゃあね!!」
 未だ湿った服を引っ掴んで部屋を飛び出す。行ってらっしゃいと間延びした声を振り切って脱衣所に飛び込んだ。

 ふやけた指で手をかけた瞬間独りでに動き出した戸に固まる。隙間から甘い香りが鼻を掠めた。
「おや、なかなか戻ってこないから、待ちくたびれて迎えに行こうかと思ったのだけど」
 思いっきり顔を手で覆う。流石にもう居ないかと思っていたのに。俯いたまま手を伸ばしてマーリンを押し退ける。布団に潜れば分からないだろう。
 どうしたんだい、と不安げな声をかけられて居心地が悪くなる。
「だって、私、今メイクしてない」
「なんだ。そんなこと」
「…すっぴんの方がかわいいよ、なんて歯の浮くような台詞を吐こうものならぶちのめすから」
 指の間から睨みつけると、おお怖い、と戯けて見せた。
 顔を背けてベッドに体を投げ出す。熱を持って腫れ上がった左腕が、やけに体を圧迫して重く重くのしかかっているような錯覚を起こす。痛いなぁ、と呟く。
「…重いよ、マーリン」
 ふふ、と笑ってから、彼は私の背中に寄りかかったまま目の前に手を差し出す。枕元に弱く光る花が揺れた。
「夢見が良くなる香りだよ。どうだい、落ち着くだろう?」
 ふわふわと鼻腔を擽る蜜の香りはほんのりと太陽の匂いがして、瞼の裏の暗闇には明るく鮮やかな新緑が広がる。
 これなら寝れるかも、と零すとぶわりと甘い香りが近づいた心地がした。

「おやすみ、良い夢を」



 久しぶりの着信音は旧知の友人からだった。
 おめでとう、と私は一人で飛び跳ねてから、お祝いは何がいいかなと笑った。ややあって何でもいいよと小さな声がスピーカーを揺らす。考えておくね、と電話を切って、椅子から腰を上げる。
 くたりとした部屋着をベッドに放ってセーターを被る。チクチクと肌に当たるのを無視して上着を重ね、財布をポケットに捩じ込んだ。

 照明を反射してテカテカと輝く手の甲を見詰めて溜息を吐く。一番濃くて新鮮な色を指で伸ばして、友人の顔を思い浮かべた。
 甘ったるいチョコレートをドロドロに溶かしたような濃い血液みたいな色。それが彼女の唇を彩る様を想像して、棚からケースを一つ手に取った。
 美容に詳しい友人には子供騙しのようなものでしか無いだろうと分かっていても、何か祝う気持ちを伝える物が欲しかった。

 玄関のドアノブに手をかけて硬直する。足下から伝ってくる振動。壁越しに聞こえる怒号。
 私が何も成せないのが私のせいなのなら、これも私のもたらしたものなのだろうか。
「…ただいま」
 息だけで帰宅を呟いて食卓をすり抜けて自室に飛び込む。かわいらしいラッピングを施された紙袋を机の端に座らせてから、隣の本棚に手を伸ばす。
 ホコリにまみれた紙束を床に積み重ねていく。のめり込んだ小説、コミック、かつて集めた雑誌、汚く破れた参考書。卒業アルバムから滑り落ちたDVDは広げたビニール袋に投げ込んだ。引き出しの中身を引っくり返しながら、ノートパソコンを起動させる。デスクトップを端から端まで選択して、ゴミ箱に吸い込ませる。アンインストール、アンインストール、ログアウト、削除、削除、削除。ハンガーに吊るされている洋服も一緒くたにしてゴミ袋に詰め込んだ。
 デスクマットを埋め尽くす廃棄物と、軽くなった家具と広い壁。
 冷え込んだ床がひんやりと心地良く感じる。はあ、と吐いた息が曇らせた床が震える。
 バキリと壁が軋む音がする。目の前の扉がしなった。

3

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唯繰