温泉


昼間のお風呂がこんなに贅沢なものだったなんて気づかなかった。いつも夜中に職場のシャワールームで素早く済ますか朝方帰宅して眠気と戦いながらふらふらと済ますかの二択しかないのでゆっくりと湯に浸かるというのが随分久しぶりで、なんというか日頃の疲労が蓄積された身体に染み入る。じんわりと温めてくれる温度を心地よく感じながら陽のひかりに反射して目映く輝くお湯を掬う。本当に来て良かった。

「楽しそうですね」
『うん。連れてきてくれてありがとう』

どういたしましてとゆるりと瞳を緩め湯船の中に入ってきた彼に首筋を啄まれる。

一眠りした後、身支度を始めた彼をぼんやり眺めていたら「君も早く準備してください」と言われ慌てて部屋に戻り着替えて鞄に荷物を詰め込んだ。
準備を終えて玄関のドアを開けると既に用意を終えた彼が待っていて、手に持っていた荷物をさらわれ駐車場へと歩き出した。そこに停まっていたのはあまり車には詳しくない私でさえ高いと聞いたことのあるようなエンブレムのついた車で弱冠乗るのを躊躇ってしまったが、助手席のドアを開けてどうぞと微笑まれたら従うしかない訳で。柔らかい革張りの座席に身体を滑り込ませると既に暖まっていた車内の温度にほっと息をついた。
それから車を走らせたどり着いた先は、今朝携帯で見ていた海の見渡せる室内露天風呂が売りのホテルだった。驚いて彼を振り返るとまるで悪戯が成功した時の子どものような顔をしていた。

小さく水の跳ねる音がしてはっと意識を戻す。

そういえば今まで一緒にこうしてお風呂に入ったことがなかったなと思う。
私の部屋じゃ浴室が狭いから二人でなんてとても入れないし、彼もシャワーだけで済ますことが多いみたいで気にしたこともなかったが、こうして明るい場所で改めて見ると格好いいというよりは美しい人なんだということを実感させられる。すっと通った鼻筋に薄い唇。綺麗に整った眉の下には不思議な色をした瞳。誰もが振り返る美貌に思わずため息が溢れてしまう。なんで私なんかを相手にしてくれているのか不思議だ。もしかしたら私以外にもそういった相手がいるのかもしれないが。それでもどうして、と思ってしまう。

「どうしました?」

ぼうっと見つめすぎていたのだろう。湯気で顔に張りついていた髪を耳にかけられながら覗きこんでくる。

『美人だなぁと思って。見惚れちゃった』

おどけて言うとむっとして「男なのであまり嬉しくありません」と眉をしかめる。

『でもこんなに美人なら皆放っておかないよね』
「…今日は自棄に突っかかってくるじゃないですか」
『そうかな。気に障ったらごめんなさい』

いけないいけない。折角連れてきてもらったのに喧嘩を売ってどうするんだ。
腕を首に回して唇に軽く口づけると幾分機嫌を直したのか腰に手を落ち着けてこつんと額をつけた。

「…もっと喜んでくれるのかと思いました」
『すごく嬉しいよ?』

女のひとり旅なんて寂しい結果にならずに済んだし。

「いえ、そうではなくて…」

それっきり難しい顔をして黙ってしまった彼になんだか気まずくなって身体を預けてはみたものの反応は芳しくない。


『…樺根さん』
「、はい?」
『名前、樺根さんっていうんだね』

フロントで呼ばれていた名前を思い出しながら口にすると苦笑して「違います」と返された。

「偽名なんです」
『そうなんだ』
「クフフ、色々事情がありましてこうした記録の残るところであまり本名は使わないんです」
『ふぅん』

偽名を使わないといけないという事情があまりよくわからないが何やら理由があるらしい。

「気になりますか?」
『え?』
「僕の名前」
『うーん…』

それなりに気になりはするが…。

『いい、聞かない』
「おや、どうして?」

目を丸くする彼に、にこりと笑ってみせる。

『だって名前なんか知らなくても今のままの気儘な関係もなかなかいいと思って』
「そういうものなんですか?」

渋い顔をしたところをみるとあまり賛同は得られなかったみたいだが、それでもこのままの居心地のいい時間を壊したくないと思う。知れば知るほど過剰な情報が耳に入ってきて感情を荒立たせたくない。彼のような美しい人ならきっといい噂も聞きたくなかったと思えるような噂もたくさんありそうだから。

『それに貴方には秘密が似合う』
「それは光栄です。と言うべきなんでしょうか…」
『さあ。私は誉めてるつもりだけどね』

まだ腑に落ちない顔をしている彼に跨がると渋々と抱き止めてくれた。ただ余計なことは考えずに貴方と居たいだけなのに。

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