耳:誘惑

耳をくすぐる密やかな甘い吐息に私は困惑していた。私の居場所はここではないことくらいわかっている。だってここは私が焦がれても到底手に入れられないと思っていた場所だから。彼の細やかな息遣いまではっきりと伝わってきて落ち着かなくなる。
何より普段より近くで感じる彼の甘い香りにあてられてくらくらと眩暈を起こしそうになった。
そんな私の様子を可笑しそうにくすくすと笑いながらおどけたように口を開く。

「連れてきてしまいました」
『連れて、こられてしまった…』

呆然と呟く私に苦笑いを浮かべている。

「どうもいけない。本当はこんなことするつもりでは無かったんですよ」
『えっ…?』

期待しちゃだめだ。いつも欲しいと思っていた言葉をことごとく裏切ってきたこの男の言うことなんて。それでもどこかで淡い期待をはじめている私の心臓がおかしな速度で脈打ち始めていた。
そんな私のことなんて気にもとめた様子もなく彼はゆっくりと口を開く。

「君の父上の立場もありますし、何より幼い頃より知っている君がこんなおめでたい日に今にも死にそうな顔をして薄気味悪い笑みを張りつけて立っているんですから。吹き出しそ…いえ何事かと思いましたよ」

建前と本音が逆転していることを言ってのける彼にやっぱりかとため息をついた。
婚約パーティーの最中に私の前に現れたこの男は祝福の言葉とキスを贈ったと同時に私の手を掴み逃走を図った。そして現在に至るというわけなのだが…。
本当は面目を潰された父のことを嘲笑っているのだろうし、そのための手段として利用したに過ぎない私の身を案じている振りをしているだけのこと。わかっていた。わかっていたが、こうも相手にされていないとなると悲しくなってくる。

「さて、これからどうしましょうか」

ふっと耳元に息を吹き掛けられてぞわりと肌が粟立つ。恐々と目を合わせると彼はいつになく優しい笑みを浮かべていた。

『…パパ達に怒られたら一緒に謝ってくれる?』
「おや、どこかで聞いた台詞ですね」
『?』
「いえ、いいんですよ。気にしないでください。でも、そうですねぇ、」

視線を宙に泳がせ、考えあぐねているようにも見える。
やっぱりパパの面目を潰したことだけで彼の悪戯は達成していたらしい。利用した私のその後のことは考えていなかったようだ。彼の中で私は自分の父親に負けてるって考えると虚しくなってくる。悶々とした気持ちを抱えていると不意に耳にひたりとした感触が私を襲った。

「えっ、な、なに…?」

びっくりして慌てて耳を押さえたが、楽しそうに目を細めている彼にゆっくりと手をほどかれていく。

「君がずっと望んでいたことをしてあげましょうか?」
『へ…?』
「こんなおじさんですが、君を満足させることくらいはできますよ?」

まだ昔言ったことを根に持っていたのか。彼らしいといえば彼らしいのだが。でもパパと同世代の彼は私にとってはいくら顔が整っていようとおじさんはおじさんだ。でもそれでも好きになってしまったんだからしょうがないじゃない。だって好きなんだもの。
居たたまれなくなって全てを見透かしたような色違いの瞳から逃れるように視線を反らしたが、それでも彼はじっと私の方を見ているのが確認せずともわかる。

ふ、と息を吐き出して震えそうになっている腕をぎこちなく彼の首に回した。

『…パパに怒られたら一緒に謝ってくれる?』

彼がどんな顔をしているかなんて知らない。ぎゅっと目を瞑り近くにあった彼の耳に震える唇でキスを落とした。



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