唇:愛情
「愛情なんてものは所詮僕にわかるはずもない」
そう口にした彼に私はひどく悲しくなる。
彼に対してそんなことはないと簡単には口に出来ないし、無責任に同情したくない。ならば私のとるべき行動はひとつ。
『では、お先に失礼します』
「いや、ちょっと待ちなさい。そこはブラウスのボタンをひとつふたつ外しながら僕の膝の上に跨がり、私が教えてあげるとか言いながらキスをしてくるとかじゃないですか?」
『何ですか、その突拍子もない展開』
「今までの女性はみんなそうしてくれました」
『じゃあそんなことしてくれる人にでも頼んでください。私はごめんです』
鞄を手に取り『失礼します』と再び声をかけ六道骸の前を通って出入り口までくる。じっとりと張りついてくる視線なんて全く気にならない。仕事終わりまで上司のよくわからん話に付き合わされるとか勘弁してほしい。今日は帰ったら引きこもってゆっくりしようと決めていたのだ。
どうか何事もなく帰れますようにと祈りつつドアに手をかけると不意にポツリと消え入りそうな声が聞こえてきた。
「さみしい…」
……ん?今なんと?到底あの六道骸の口から出たとは信じられない言葉を耳にした気がする。驚いて振り向くといつもは見せることのない気落ちした姿が目に入ってきた。ああ、しまった。振り返るんじゃなかった。
「今日は僕の誕生日なんです。でもこの後の予定がないんです…」
『それはご愁傷さまです。でも家に帰ったらケーキとかご馳走とか用意して待ってる人がいるんじゃないんですか?サプライズ!的な』
なんで私が慰めてるんだ。なんとなく帰りそびれてしまった。ドアに伸ばした手を引っ込めようかどうか考えてると「クフ」と腹が立つ感じの声をあげた。
「それは今朝済ませてきました」
『は?』
「誕生日パーティーは毎年早朝6時から開催されるんです。」
『いやいやおもいっきり朝イチから祝われてるじゃないですか?!これ以上更に祝えっていうんですか?どんだけ欲しがり屋さんなんですか!』
こ、このやろう…!人をおちょくるのもいい加減にしろ!これ以上不毛な時間は過ごしたくない。今度こそさっさと帰ろうとドアノブを握りしめ「待ってください」はい、残念!帰れませんでした!
「違うんです。だって盛大に祝えば祝うほど終わった後の静けさが一層身にしみて悲しくなるじゃないですか…」
『だったら日付が代わるまで夜通し騒いどきゃ問題ないでしょう!六道さんは今からパーティーのメンバーに集合をかけたらいいんです。はい、解決。』
「だめです。皆が集まるまで待てません。今、寂しさがぶり返したんです」
『そんなの知りません!私は忙しいんです』
「で、思い出したんです。そういえば君には祝ってもらってないなぁ、と」
『勝手に思い出さないでください。祝うつもりは微塵もありませんので』
「いいじゃないですか、少しくらい」
ギィと音を立てて椅子から立ち上がり甘ったるい顔をしてこちらへ近づいてくる。
「ね?」
『ね、じゃありません。ね、じゃ…』
今までになく近い距離に落ち着かなくなる。早くこのドアを開いて何も聞かなかったことにしてさっさと帰るべきなのに、私の足は床に縫いつけられてしまったようにぴくりとも動かない。
そんな私をくすりと声に出さず笑いながら顔が近づいてきた。ちゅと軽く唇が触れたかと思えば、ぬるりとした感触が口内で蠢いていく。当然のようにキスも上手い。どうしよう。
こんな愛情がわからないと平気で人前で口にするくせに人一倍愛を欲するような人に想いを募らせてもつらいだけだなんてのはわかりきっているというのに、この人のたったひとつの気まぐれなキスで今まで必死に関わりあうまいとしてきた私の努力なんてあっさりと崩れ去るのだ。
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