おかしい。このデスクの上に置いていたプリントがなくなっている。
授業後にコピーをして今日の業務を終える筈だったのだがデスクの上は紙切れ一枚残っていない。事務の笹川京子に訊ねてみても見ていないと言う。他の書類の中に紛れてしまったのだろうか。苛立ちながらパラパラと書類の束を掴み確認していると丁度前を通りかかった入江正一が人の顔を見るなり「ひっ…!」と短く悲鳴をあげて腹を抱えながら足早に通りすぎて行った。いちいち勘に障る男だ。大体この前なまえさん達と彼女がいるのかいないのかで大いに盛り上がっていたことも気に食わないというのに。何故なまえさんは入江なんかではなく僕に聞いてこないのだろう。僕だったら彼女どころか本命は君ですと伝えるのに。更に加速した苛立ちに盛大に息を吐き出して書類を捲るスピードを速めた。
結局書類の束の中にはなかった。
何かの拍子にデスクの下に落ちたのか。小さく舌打ちをして屈みこむ。
その時、六道先生、と生徒に話しかけられた。人が取り込み中なのに見てわからないのか。
つい強い口調で返事を返して生徒の方を見ると眉を下げたなまえさんが立っていた。
視界の端では遠巻きに山本武がにやにやしながらこちらを見ていて、その隣では入江が顔を青ざめさせて腹を押さえている。
「どうしたんですか?」
『ごめんなさい。お邪魔でしたか?』
「いいえ、大丈夫ですよ」
君より大事な用事なんて存在しません。
僕が立ち上がるより先に隣に身を屈めてきたなまえさん。当然僕の視線はスカートから覗くなまえさんの膝小僧に釘付けだ。
そして顔を近づけてきてこそりと『えっと…この前、お肉ごちそうさまでした』とはにかみながらぺこりとお辞儀をした。
『とっても美味しかったです!』
「いえ、あのくらいでしたらいつでもご馳走しますよ」
『それで、お礼とかしたいなって思ったんですけど…先生の好きなものってなんですか?』
先生の好きなものは君です。なんてこの場では言える筈もなく「お礼なんていいんですよ」と答えるくらいしか出来ないことのなんと歯痒いことか。
もしお礼をいただけるのならなまえさんのそのぷるぷるの唇をいただきたいと、いや唇どころかその身全てを味わいたいんですが…。
じっと唇を凝視していると、不思議そうにこてんと首を傾げた。ああもう可愛いんですから!先生今ので我慢の限界を迎えました。ちょっと唇を重ねるくらい許されますよね?丁度物陰になっていて周りからも見えづらいですし。
そっと肩に手を置けば驚いたのか華奢な身体が僅かに跳ねた。
「なまえさん」
『えっ…?』
ぱちくりと見上げてくる大きな瞳にこくりと喉が鳴る。肩から首筋を撫でれば擽ったそうに身を捩った。その際なまえさんの口から漏れた吐息に否応なしに息子が反応してしまうのは仕方のないことだといえよう。
ゆっくりと顔を近づけていきあと数センチというところで僕となまえさんの間に一枚の紙が文字通り飛んできた。
「…六道先生。お探しの書類、それじゃないですか?」
デスクの脚に突き刺さった書類に視線を動かして内容を確認するとまさに先程までの苛立ちの元凶であったプリントだ。
「……ええ、これです。ありがとうございます、沢田先生」
表情筋を駆使して礼を言うと「いやぁ、俺の書類の中に紛れてたみたいなんですよ。お互い色々と気をつけないといけませんねぇ、六道先生」と何やら含みのある物言いに確信犯かこの野郎と腹の中で毒づく。
全く空気の読めない男だ。だからいまだに事務の笹川京子に想いを伝えられないんですよ。
なまえさんはといえばいつの間にやら姿を消していて「ほら、だから言っただろ。六道にはみょうじが一番きくって、ハハハ!」という山本武の笑い声が室内に響いていた。