塾講師と生徒7

思えば今日は朝から気分は最悪だった。
もっと厳密に言うなら昨日の夜から。先生がやっぱり例によって変なことばっかり試そうとするから身体は痛いし腰はだるいしで散々だ。それになんの夢か覚えていないくせに夢見は悪いし。
むう、と唇をとがらせて絡みつくシーツを押しのけ座っていると、隣で寝ていた先生が私の機嫌が悪いことに気づいたのか気だるそうにサイドテーブルに手を伸ばして小皿の中からキャラメルを一粒取り出した。包みをほどいて口の中に入れられる。もう何か食べさせれば機嫌が直ると思って。でも甘いキャラメルの味が口の中に広がると気分が幾分か落ちついてくるから不思議だ。キャラメルをしばらく堪能していると背後からぬっと手が出てきた。やんわり胸の形を確認するように撫でながら「おはようございます」と聞こえてくる。どこに言ってるんですか。それに回復した筈の気分がまた急降下してムスッとしていたら機嫌を取るように軽く頭を撫でられのそりと起き上がってきた。

「今日は天気もいいし、出掛けましょうか」

大きく伸びをしながら出された提案に一も二もなく飛びついた。




出掛ける準備をしてそろって玄関から出ると突き刺さるような陽射しが眩しい。それに目をしぱしぱさせながら歩いていると途中で美味しそうなアイスとかクレープが売ってある移動販売の車が目についた。若い女の子達が列を作って色とりどりのアイスを楽しそうに選んでいる。じっと女の子達を見つめていると上からくすりと笑われたような気配がして見上げると「食べますか?」と優しく目を細めて聞かれた。もちろん即答してふたりで列の後ろに並ぶ。


「骸ちゃん!」

買ってもらったアイスを食べていたら、突然先生の名前を気安げに呼んでヒールの音を響かせながら近づいてくる女の人がいた。誰だろう?先生を見上げると知り合いですと短く呟いたあとよく塾で見せていたよそ行きの顔をしてその人に笑いかけている。
近づいてきたのは眩しい陽射しに負けないくらいの艶を放つ赤毛が綺麗な女の人だった。




「もう!はるばる日本まで来たっていうのに全然連絡もくれないんだから!!」
「すみません。色々忙しかったもので」

先生は憤慨している女の人に苦笑しながらコーヒーが入ったカップを口につけている。

嘘だ。

今日だってお昼近くまで寝ていたのに。その前の日だってふたりでずっと一緒に居て「その先生というのはそろそろ卒業しませんか。名前で呼んで欲しいです」とか言い出したから『六道…さん』「下の名前で呼んで」『む、』「はい」『むむ、』「頑張って」『むー!』
結局最後まで照れて言えなかった。大体今まで先生は六道先生でしかなくて下の名前でなんて恥ずかしくて、心臓がとてつもない速度で動き出すもんだからとてもじゃないが今の私じゃ呼べない。私もこの女の人みたいに大人になったら臆面もなく先生の名前を呼べるようになるんだろうか。ああそんなことはどうでもよくて。女の人から連絡がきていたなんて知らなかった。先生も大人のお付き合いというのがあるだろうから変なことは言いたくないけど、でも…。それとも私が居たから連絡出来なかったの?

熱に負けたのか垂れてくるアイスを食べながらふたりの会話にそっと耳を傾けてみる。私の知らない話ばかりが続いていく。私、ここにいてもいいのかな?ぽつりと浮かんだ疑問がずしんと全身を支配する。こんなに外は気温が高いのに一気につま先から凍えるような感覚に怖くて心細くて頭がぐらぐら揺れる。どうしよう。先生を見ても女の人とまだ楽しそうに話していてその間に割り込んでいく勇気なんてない。ぐらぐらする頭を宥めながらコーンをかじると縁が少しだけふやけてふにゃふにゃになっていた。甘さを微かに含んだしなしなのそれはまるで今の自分みたいに思えて無性に泣きたくなった。





女の人の携帯が鳴って席を立ってから何となく気まずい雰囲気だ。せんせい。喉が張りついて掠れた声しか出なかった。小さな声だったから気づかれなかったのかもしれないと思ったけど、顔を寄せてどうしました?と優しく聞いてきた。
少しだけ動いた先生の唇がやけにつやつやで美味しそうに見えたから思わず口をつけると、驚いたように目を丸くした。あ、しまった。先生は大人のひとだから人前でこんなことをされるのは困るのかもしれない。そう気づいたらどんどんいたたまれなくなって慌てて離れようとすると、後頭部を押さえられて先生の冷たい舌が入ってきた。さっきまで食べていたバニラの味と先生のコーヒーの味が口の中で混ざりあう。

「どうしたんですか」
『…アイス、なくなりました』
「他に何か頼みますか?」

メニューの方へ目線をやりながら聞かれたが、首を横に振って断ると困ったように微笑を浮かべて首を傾げている。

「疲れましたか?」

疲れたのかな。頭痛の代わりによくわからないモヤモヤが胸の中を渦巻いている。

『帰りたいです』

口をついて出た言葉に自分で驚いた。違う。全然そんな事は思ってなかったのに。

「そうですね、今日はもう帰りましょうか」

優しく乗せられた手のひらが心地よくて目を閉じる。そうやってしばらく先生に寄りかかっていたら、女の人が戻って来てこれから食事でもどうかと尋ねられた。
はっとして顔を上げると先生は困ったように笑っている。行きたいのかな?そう思った途端、今度はぐらぐらからぐわんぐわんと揺れが大きくなった気がした。

「それは魅力的なお誘いですね、」

やだ。女の人に優しくする先生も、私なんかよりずっと前から先生を知っていて名前も躊躇わずに簡単に言えちゃうような女の人も。

『む、くろ…さん』

ぎゅと先生のジャケットの裾を掴むと一瞬だけ先生の動きが止まって弾かれたようにこっちを向いた。

「クフフ。すみませんMM。今日はこの娘の調子が悪いみたいです」
「えー?なによ、せっかく会えたのに」
「それはまた次の機会にでも…失礼しますね」

女の人はまだ何か言いたそうな顔をしていたが、言葉にするより先に先生は伝票を掴んで腰を浮かす。私も二の腕辺りをひっぱられて一緒に立たされた。

「次は絶対だからね!約束よ!!」

念を押すように投げかけられた言葉に軽く振り返って応じると肩を抱かれてレジへと歩き出した。





女の人と別れてレジの近くに並べてあったお菓子をたくさん買ってもらった袋をぶら下げながら少し歩いていると甘さを含んだ声で名前を呼ばれた。

「ねえ、もう一度名前で呼んでください」
『だめ』
「お願いします」
『むり』
「どうして?」
『………』

どうして。どうしてなんだろう。そりゃあ相変わらず恥ずかしいし、心臓はばくばくするし。でもさっきは言えたのにまた言えなくなっている自分がいる。俯いて黙ってしまった私に気遣ってか「無理なら良いんですよ」って言ってくれた。先生だって名前を呼んで欲しいんだろう。付き合ってからもずっと呼べずにいたし。でも、


『…言ったら爆発しちゃう』

独白に近い呟きに聞き取れなかったのか え、と顔を近づけて来た。かと思えば中途半端な高さで動きが止まる。

「耳まで真っ赤ですよ」

ふにっと耳たぶを挟まれた。それからクフフ、っていつもみたいに変な笑い声をあげて「まあ、言いたくなるようにふたりで練習すれば良いだけですし」と不穏な言葉を落として「帰りましょうか」と告げられた。嫌な予感しかしない。お菓子の袋を握りしめて引きずられるようにして再び歩き出す。でも先生のあの大きな家に帰れるんだと思うと身体中から力が抜けていく感覚にほっとする。

頭痛はもうない。


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