私は困惑していた。
ほかほかと湯気をたてるオムライスに。
目の前でオムレツにすっとナイフを入れてもらったら半熟卵がとろりと溢れてくる。すごく美味しそうだ。
骸さんのマンションについて私達がまずやったことといえば、キスでもなく、シャワーを浴びることでもなく、食材を冷蔵庫に詰めて出された温かなコーヒーをソファに座って飲むことだった。
その間の骸さんはというと「お腹空いてませんか?」という言葉と苦笑を残してキッチンへと消えてしまった。
私が返事をする前に正直に応じたお腹のせいだ。
まあそんなことはどうでもよくて(…)重大なのは彼が一体何を思って私をここへ連れてきたのかということだ。まさか童話みたいに丸々太らせてぺろりと食べてしまうわけじゃあるまいし。
これじゃあまるで友人を家に招いたような対応ではないか。まさか。私達はそんな関係じゃない。ただの一度会っただけの人間だ。そんな扱いを受ける覚えはない。
「卵頂いてもいいですか?」
『ど、どーぞ!』
キッチンから聞こえてきた骸さんの声に慌てて答えるとパカッと冷蔵庫を開いて卵のパックをぴりぴりと破く音がした。
いけない。なんていうか私この場の雰囲気に圧倒されてるのかも。こんなふかふかのソファの上に座らせて、温かい飲み物を出されて、ようやく稼動してきたエアコンから流れてくる暖かい風が部屋の中を満たしてきて、ついつい頭がぼうっとしてしまう。
それにしてもじゅわっと音をたてるバターのいい香りが部屋中に広がる。
あ、やばいよだれが…
ごくりと溢れてくる唾液を飲み込んで、再び唸りをあげようとするお腹をカップに残ったコーヒーで宥めた。
バターの香りに続いてコンソメの香りが部屋を満たしはじめたころ、リビングへ戻ってきた骸さんが「あり合わせで作ったのでお口に合うかわかりませんけど」という言葉に私は情けなくも項垂れていた。
『………』
いやだからなんで私が答えるより早くお腹が答えるの!
恥ずかしい、これじゃあものすごく飢えてるみたいじゃないの。それもこれもこの美味しそうな香りが悪い。お腹をさすっているとくすりと笑う声がしてふわりと頭に重りがかかった。
「もうすぐ出来ますから」
あっ、その顔…!だめだめ、そんな優しい顔されたらうっかり色々許しちゃいそうになっちゃうから!!
もちろんそんな私の心の葛藤になんか気づいた様子もなく持っていた空になったカップを覗き込んで「コーヒーのおかわり持ってきますね」と再びキッチンへと消えていった。どうしよう気遣いさんだ。しかもかなりのやり手とみた。だってさっきからここを立ち去る理由を必死に考えているけど全然思い浮かばないもの。むしろだんだん居心地が良くなってきているからすごく困る。撫でられて少し乱れた髪の毛を直しつつうまくここを立ち去る言い訳を再び考え始めた。
「どうぞ」
そして私はうまく立ち去る言い訳を思いつくことなくほかほかと湯気をたてるオムライスを前にスプーンを握りしめていた。
『とろとろ…!』
感激のあまりつい口に出してしまった。卵がキラキラ輝いているように見えるのは目の錯覚だろうか。いつも買ってる卵がこんな風に変身するなんて…!
お母さんのオムライスは堅焼き卵で包んであったからこんなとろとろオムライスをご家庭でお目にかかれるだなんて思ってもみなかった。でも待って。見た目だけじゃ判断出来ない。そう、まずは食べてみないことには…。ごくりと喉を鳴らしてスプーンでふわふわの卵とチキンライスをスプーンですくっていざ口の中へ…!
『い、いただきます』
そっと口の中へ運ぶとバターの香りがふわりと鼻をくすぐる。
うまぁ…!
どうしよう、すごく美味しい。美味しすぎて倒れそうだ。この感動を一刻も早く骸さんに伝えたかったけど口をついてでてきた言葉はあまりにもありきたりなものだった。
『お店の味みたい!おいしい!!』
「お口に合ったみたいで良かったです」
心配そうに私の動きを見ていた骸さんは ほっと息をついて自分のオムライスに口をつけた。それからは夢中でオムライスを食べた。お腹も空いていたせいかぺろりと平らげてコンソメスープも合間に飲んで(もちろんおかわりした!)、先に食べ終えて骸さんが食べ終わるのを待っているとすっと食器が私の方に差し出されて「食べかけですけど良かったら食べますか?」と言われたのでそれも有り難く頂いた。なんでもう少し食べたいって分かったんだろう。気遣いも極めたらエスパーになるのかもしれない。うーん侮れないなエスパー…じゃなかった気遣いの達人。
そして手を合わせてごちそうさまをしたところでようやく我に返った。いや、うん遅いのは分かってるよ。
若干の気まずさからちらりと骸さんを見ると、ばちっと目が合ってしまった。
「今日は突然すみませんでした」
『え?』
むしろすみませんは私の方なんだけど…ごちそうになっちゃったし。骸さんの言葉に首を捻っていると ふ、と表情を緩ませて眉を下げた。
「まさか今日あんなところで会うなんて思ってもなくて」
『はぁ、』
「嬉しくて思わず家まで連れて来てしまいました。あの、ご迷惑ではありませんでしたか?」
気遣うような視線に慌てて首を振る。そりゃ最初は戸惑ったけど迷惑とかは全然、思ってもなかった。
『いえいえ。こちらこそ美味しいご飯をありがとうございました』
ぺこりと頭を下げると柔らかく笑う声がした。その声につられて頭をあげると初めて会ったときに見たあの蕩けてしまいそうになる顔でこっちを見ていた。
「君ともう一度ちゃんと話をしたかったんです」
話って…。何を話すつもりだったんだろう。私達に話すことなんてそんなにない。むしろひとつくらいしかない。
キスが触れるだけの優しいものから舌が滑りこんできたときにすごくドキドキしてでもとても気持ち良かったこととか、寝転ぶときに頭に軽く手を添えてもらったことが嬉しかったとか、きれいな鎖骨に最中だというのについついみとれてしまっていたこととか、どの体位が一番良かったかとか、でも別れ際に見たあの笑った顔が一番好きだったとか話せというのか。恥ずかしいうえにそれらの全てのことをうまく伝える術なんて私は持ち合わせていない。
どう答えていいかわからずテーブルの上に置かれたままの空になったお皿を見つめていたら、躊躇いがちに骸さんが口を開いた。
「あんな形で知り合ってしまったのでどう言ったらいいのかわかりませんけど、もっと君のことを知りたいと思っていたんです」
私を、知る?
それって……つまりはどういうことなんだろう。私を知ったところで食べるのが好きな試食おたくということくらいだ。
「例えば君がデパ地下散策が好きなこととか、オムライスが好きなこととか、どんな本を読むのかとか、どんな音楽を好んで聞くのかとか、どんな映画が好きだとか、お気に入りの場所だとか、とにかく色んな話をしてみたいと思ったんです。あの時は時間がなくて出来なかったんですけど。会ったばかりで恋人、というのは気がひけるかもしれませんが友人から始めてみても…」
『ともだち!』
骸さんの言葉を遮って声をあげた私に驚いたのか目を丸くしている。
そうか。友達になってもいいんだ。
急に目の前が開けた気がした。
友達なら骸さんと会っても不思議はないし、上手くいけばこの美味しいご飯にだってありつけるかもしれない。それになにより夏になれば骸さんのあのきれいな鎖骨が見れる機会があるかもしれないのだ。これは断る要素が全くない。むしろ私ばっかり得しちゃってる気がしないでもないけど。
『なりたいです!骸さんの友達に!!』
興奮気味に叫んだ私に、安心したように表情を緩めて「よろしくお願いしますね」と律儀な骸さんの言葉に大きく頷いた。