If-帝光編(一年)


修復への道筋


優しい旋律は何時しか途絶え、やがて私の意識はゆっくりと浮上した。

次に目が覚めた時は、白い無機質の天井が見えた。

『……保健室…?』

「…目が覚めたか」

低く柔らかい声が聞こえる。
私は声の元に視線を向けた。

『……緑間君…』

彼は私に右手を伸ばした。私はびくりと身構える。
彼は、私の額に手を当てた。
ひやりとした手は何故だか気持ち良い。私は目を細めた。

「…今度は…逃げないのか?」
『……ごめん…』
「驚いたのだよ。妙な音がしたから見てみたら、お前が倒れていた。俺に……何か用があるのか?」

緑間君は言いながら顔を背け、眼鏡のブリッジを上げた。

『…このままじゃ良くないって思ったから…緑間君とちゃんと話そうって思って…
演奏が…気持ち良くって眠っちゃったみたい。邪魔してゴメンね?』

彼は軽く目を瞠った。それから、息を吐き出した。

「……俺は嫌われてるのかと思ってたのだよ。苗字から来るとは…意外だった。
図書室の事と言い…全くお前は、良く分からない女なのだよ」
『私、緑間君を嫌っている訳じゃないよ』

彼は暫く黙り、溜息を吐いた。

「……なら、あの時の事が原因か? お前は…まだ引き摺っているのか。失敗なんぞ、誰にでもある事だろう」
『緑間君見る度に…思い出して、いたたまれなくなってしまって…』
「…全く、お前は馬鹿なのだよ。俺から逃げても、嫌な過去は無かった事には出来ないのだよ」
『……分かっている。だから来た』

昼休みが終わる予鈴が鳴り響き、緑間君は立ち上がった。

「お前は熱がある。今日は早退した方がいいのだよ。部には俺から伝えておこう」
『あ、ありがとう…って、私がバスケ部員だって知ってるの!?』
「初日からな。…回復したら、また話そう。これは俺の連絡先だ」

彼はメモを渡した。私は驚いた。

『えっ!?』
「別に要らないなら捨てても構わん。俺は、かつてのラッキーアイテムの礼をしたいだけだからな」
『義理堅いね。あんなの、何年も前の事じゃん』
「その何年も前の事を、未だに引き摺っているのは誰なのだよ?」
『……私です…』

がっくりと項垂れた私に、彼は軽く含み笑うとドアに向かって歩き出した。
『緑間君っ!!』
彼の後ろ姿に呼びかける。彼は一旦、足を止めた。
『また、あの曲を聴かせて…!』

彼はドアの前で肩越しに振り向いた。
「…お前の曲も聴かせてくれるなら、また弾いてやってもいいのだよ」

……私、人前で弾けないんだけどな。
聴きたいのなら、緑間君の前でだけでも弾ける様にならなきゃダメなのか…

緑間君が去ってから、私は少しだけ眠り、大分気分が楽になっていた。
でも体温を計ると、まだ微熱があった。
保険医も早退を薦めたので、私は荷物を取りに教室に向かった。

※※※

私が荷物を取りに教室に戻ったら、黄瀬君に話しかけられた。

「5時限目、居なかったっスね。サボりっスか?」
『…体調悪いから、今日は帰るよ』
「……じゃあ、アレはやっぱり苗字さんだったんスね」
『アレって?』

彼は猫の様に目を細め、頬杖を突いて私に顔を向けた。
「女の子達と廊下で喋っている時に見たんスよ。
緑の髪の男に、お姫様抱っこで抱えられて運ばれているアンタを」
『お姫様抱っこぉー!?』

緑間君、そんな運び方をしていたのか!

私が驚いて顔を赤くしたのを、彼はニヤニヤしながら追及する。

「苗字さんの彼氏っスか? 中々良い感じで、俺と一緒にいた女子達も騒いでいたっス」
『……っ、そんなんじゃないから…っ!!』
「へーえ…なら、どうしてそんな事になったんスか?」
『私が具合悪くて倒れていたのを、偶々居合わせた彼が運んでくれてただけ。
変な事言わないで。緑間君に悪いでしょ?』
「ふーん…緑間って言うんスね、そいつ。でも苗字さんの顔、赤いっスよ」
『…熱のせいだよ!』

ああ…余計な事言っちゃったかな…?
熱のせいで判断力が鈍っているのか。

私は軽く頭を振った。

「でも安心したっス」
『……え?』
「苗字さん、さっきよりも大分顔色が戻っているっスよ」

黄瀬君って、意外に人見ているんだな。
女の子がこれをやられると、弱いって知っているのか。
だからモテるのか…顔だけじゃ無いんだな。流石のイケメン。

『確かに一時間程休んだので、さっきよりも楽になっているね』
「…それだけじゃないみたいっスけど?」
『は…?』
「何だか…良い事があったみたいっスね。表情が明るくなっているっス」
『……!!』

図星だ。
緑間君と話したせいで、今までの重荷が無くなってしまっていた。
私も大概に単純だ。
……これなら、青峰君に言われる前に、さっさと緑間君と話してしまえば良かった。

『…案ずるより産むが易しってね』
「案ずるより…っスか。俺…あまり案じた事無いんスよねー。何だって出来てしまうっスから!」
『それは…羨ましいね』
「普通はそうなんスよね。でも、あんまり簡単に何でも出来るのもつまらないっス」

これで嫌味じゃない所が腹立つわ。
私は人差し指を振って見せた。

『…いつか…黄瀬君にもきっと、簡単に行かなくて夢中になれるものが出来ると思うよ』
「何スかそれ?w」
『世の中、何が起こるかは分からないって事!』
「…まさか、俺に惚れない女の子に夢中になる、とか…?」
『男性にはハンターの本能があるって言うし、それもあるかもね?』
「冗談に付き合う余裕が出て来たんスね。何よりっス。気を付けて帰るんスよ」

私は、黄瀬君にひらひら手を振って教室を出た。

※※※

早目に帰宅して、食欲が無いのでスープだけ食べて、自室で休んでいた。
そろそろ部活も終わる時間帯だ。

私はのろのろと携帯を出して、緑間君から貰ったメモ用紙に目を落とす。
そこにはアドレスと電話番号が書いてあった。

…何だか信じられない。
昼までグルグルしていたのは何だったんだ…?

失敗なんぞ誰にでもある事…か。
完璧に見える努力する天才の緑間君も、失敗する事って…あるのかな?
高校では負けていたけど、中学までは無敗だから、バスケ以外とか?

私は携帯の電話帳に彼の連絡先を登録した。
…とにかく、私のアドレスと電話番号を送らないと。

あと、何を書けばいいのだろう?と、そこまで考えたら、さっきの黄瀬君との会話を思い出してしまった。

確かに…状況からすると、彼は私を運んだのだろう。
…でも、それが姫抱っこって。

うっかり意識してしまうと、反って熱が上がってしまいそうになる。
あの時は、そうするしかなかったんだから。彼には他意が無いんだ。
余計な事は考えない、意識しない…

私は心の中で唱えつつ、簡単な文を作成した。

[今日はありがとう。迷惑かけてごめんなさい。これが私の連絡先です]
『…送信っと』

暫くしてから、私の携帯がメールを受信している事に気が付いた。
緑間君からだ。

[承知した。また連絡する。今日はゆっくり休め]

私の口から小さく笑い声が漏れた。
彼らしい、私以上に簡素な文章。
これで…緑間君とはメル友…になったんだろうか?

私はベッドに横たわり、目を閉じた。
瞼の裏に、キラキラした光が点滅した。
光は赤、黄、緑、青、紫…と、様々な色合いをしていた。

今度は悪夢が襲って来る事はなく、私は深く眠った。

※※※

次の日の休み時間、私のクラスに緑間君が訪ねて来た。
「苗字さーん!」
呼ばれた私は立ち上がる。

そんな私に、黄瀬君は皮肉気な視線を向けた。

「…今度は匍匐前進は無しっスか?」
『同じパターンばかりじゃつまらないから、ムーンウォークで行ってやるわよ!』
「…!? 出来るんスか!??」
『出来る訳ないじゃない!』と言いつつ、記憶の中の見よう見真似で足を動かしてみる。
しかし、足が縺れて、危うく転びそうになった。

黄瀬君は机を叩いて爆笑していた。

くそー…失礼なイケメンだな!!

「バナナの皮で足を滑らせているみたいにしか見えないっス!www」
『悪かったね!』
「こうするんスよ!」

黄瀬君が立ち上がり、見事なムーンウォークを披露する。
教室中(主に女子)から喝采と黄色い声援を浴びる。

続けて私が真似をするが、やはりよろけてしまった。
足が前に滑り出し、バランスを失った身体が後ろに倒れる。

「何をやっているのだよ…?」
呆れた声と同時に、背中に軽く当たった感触があり、後ろから私のお腹に腕が回されて支えられていた。
『…あ、緑間君。ありがとう』

彼は不機嫌に顔を顰め、私を教室の入口まで引っ張って行った。
「お前は俺が呼んでいると言うのに、何を踊っているのだよ?」
『いや、つい…ノリで…』

以前は匍匐前進してたから、とはとても言えない…
緑間君は私の答えをふざけてると取ったみたいで、眉を跳ね上げた。

「意味が分からないのだよ。下手な踊りで転んで怪我でもしたら、どうするのだよ?」
『…すみません』

彼は小さく溜息を吐いた。
「分かったならいい。今日は、これを渡しに来たのだよ」
彼は私に、小さな紙袋を渡した。

「随分長い事済まなかった。…助かったのだよ」
『……これ』って、まさか…

「気に入りだったのだろう?」
『…覚えて…いたの?』
「忘れる訳がないのだよ。…あれからお前を…ずっと探していたのだからな」

ずっと…これを返す為に…?

「今日の昼、俺は音楽室に行く」

……ん?

私は彼を見上げた。
彼はカチャリと眼鏡のブリッジに手を掛けた。

『…………??』

私は、きょとんと彼の顔を見つめた。
彼は顔を顰めたが、頬が薄らと赤い。

「…別に俺はどっちでも構わん。来たければ来ればいいのだよ」

ポカンとした私に、彼は「ではな」と呟き、去って行った。
私は呆然と彼の後ろ姿を見送る。

音楽室…彼のピアノがまた聴けるのだろうか?
淡い期待と不安に胸を押さえた。


「苗字さーん! 誰!? あの人!!??」
「彼氏!? カッコいいね!! 黄瀬君程じゃないけど!」

はっと気が付いた時、教室中が騒然としていた。

「水臭ーい! 彼氏がいるなら、何で教えてくれなかったの〜?」
『いやあの、彼氏じゃないから!』
「でも、プレゼント貰っていたじゃない!?」
『そんなんじゃ無いって!』

あのやり取りだけ見たら、そんな風に見えてしまっているのか。
中学生女子は恋愛に興味深々な年頃だ。

私は貰った紙袋を見た。
中には、件のリボンが綺麗に丸められて透明な袋に入っている。
更に、可愛い小箱に包装されたチョコレートが入っていた。

懐かしい…
私は、リボンをそっと手に取った。

数年経ているのにも関わらず、リボンには汚れや傷は一つも無かった。
律儀な彼は、きっと大切に扱ってくれたのだろう。

突然横から声がした。

「…へえ、アイツ、中々良いセンスしてるっスね!」
黄瀬君が興味深々と言った態で覗き込んでいた。

「凝ったデザインのリボンに高級チョコレートっスか…
如何にも女の子が喜びそうなチョイスっス! …今後の参考に出来るっスね」

黄瀬君のセンスを褒めたその相手が「ゾウリムシのリボン」と称していたりするのだが。

『…このリボンは…以前貸したのを返してくれただけだよ』
「じゃあ、このチョコレートは?」
『これは……多分、ずっと貸していたから、お礼じゃないかな?』
「それは良いっスけど…アイツ、女物のリボンを何に使ったんスか…?」

黄瀬君は顔を引き攣らせた。
…何を想像しているんだろうか?

「…そんな趣味の男なんスか!?」
『何引いた目をして見てんのよ…?』
「女装なら、モデルの俺の方が…っ!」
『対抗してどーする!?』

「おーい、お前等、席に着けー!」

黄瀬君に、ラッキーアイテムだと説明して誤解を解く前に、教師が来てしまった。

ああ……どーしよう?

余計な事は言わない方が良い、とは言っても、ここで出会してしまったし、変な誤解をさせてるしで…
後で妙な事にならないと良いけど…

せめて女装趣味は彼には無いと、はっきり教えておかなきゃ。

しかし、それからの休み時間の彼は女子達に囲まれてしまい、私は切り出すタイミングが掴めなくて、結局有耶無耶にさせてしまったのだった。


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