絡まる旋律
昼休み、私は緑間君との約束通りに音楽室に来た。
『…?』
廊下に響いているのは…どう聞いても軽快なJポップス。
そうっと扉を開けると、緑間君が弾いていた。
「苗字か」
『緑間君、ポップスも弾くんだー?』
「…別に俺はクラシックしか弾かない訳ではないのだよ」
恰好良いね、と褒めたら、彼は微かに頬を染めて顔を顰めた。
そんな彼が可愛くて、私はくすりと笑った。
「そんな事より、早速連弾を始めるからここに座れ」
彼は、ピアノ椅子を座り直し、右端を空けて軽く叩いた。
彼が楽譜を据え変える。それは私がコンクールで弾いた曲だった。
『私が右?』
「ああ。生憎この曲の連弾用の楽譜は持ってはいないのでな。片手ずつ弾こう」
ピアノの上にはカエルの玩具が置いてあり、そのカエルと目が合ってしまう。
「行くぞ」
彼の声に、私は意識を引き戻した。
私は、この曲は暗譜が出来ていたし、何度も弾いていたので楽譜は必要ないと思っていた。
でも片方を彼が弾き、合わせる為にテンポが微妙に変わり、両手で覚えていたのを片手のみで弾くので、いつもとは勝手が違った。
私は懸命に弾き慣れた筈の楽譜を目で追った。
指の動きも、いつもより少しだけぎこちない。
これは隣に緑間君がいるから、別の緊張をしているのだと思う。
「…少し動きが鈍いな。指慣らしが足りないのか? …そこはスタッカートなのだよ。ちゃんと切れ」
少し指が引き摺られ、軽快さが無くなってしまっていた。
完全に弾けていると思っていた筈が実は癖で弾く所があり、微妙にいい加減な弾き方をしてしまった所は、余す所無く全て彼に指摘されてしまう。
マジでこれはピアノ教室なのか。
私が内心で落ち込み始めたのに、彼は気付いたのかは分からない。
「…苗字。曲が少し硬い。前はもっと、のびのびと弾いていただろう」
『……ゴメン。やっぱ緊張するよ』
「高音はメロディー部分なのだから、もっと歌わせるのだよ」
その時、甘くて低い主旋律を歌う声が聞こえて来た。
『……っ!?』
思わず驚きのあまり、手がぶれそうになるのを既で堪える。
「苗字も歌うのだよ」
彼にせっつかれ、勿体無い、もう少し聞いていたいのにと思いつつ、私も彼の声に合わせた。
気持ちが歌に向かうと、縮こまっていた私のメロディーも次第に解放され、伸びやかになっていく。
彼に視線を向けると、彼は私を見てフッと柔らかく微笑んだ。
私は動揺したあまり、音をミスってしまった。
その微笑みは私のせいで跡形も無く消え、彼に軽く睨まれてしまった。
「折角良い感じで弾けていたものを。…何故あんな何でもない所で間違えるのだよ?」
『…す、すみません……』
まさか緑間君の微笑みに心を奪われてしまったなんて言えない。
「まぁいい。もう一回弾くぞ」
今度は少し慣れたせいか、何とか最後まで弾き通す事が出来た。
「苗字は、やれば出来るのだよ。今度は一人で弾いてみろ」
私が恐る恐る弾き出すと、彼は私の曲に低く歌声を沿わせて来た。
彼の甘い歌声を聴き続けたいが為に、私は曲を止める事無く弾き切ってしまった。
『…出来た!?』
「これでお前は人前でも弾ける様になったのだな?」
『えー…それは……無理、だな』
「何故なのだよ!?」
『緑間君の歌声があったから弾けたのよ』
途切れさせるのは惜しくて、あまりにも魅力的過ぎたからね、と言って私は彼の方を見やった。
緑間君は眼鏡に手をかけたから、顔がはっきりとは見えなかったが、耳の縁は赤く染まっていた。
「…俺の歌が無くても弾ける様になれ。…全く苗字は世話が焼けるヤツなのだよ」
そんな私の面倒を、文句を言いながらも見てくれる緑間君は、結構世話焼きな人だと思う。
※※※
もうすぐ帝光祭の時期になる。
帝光祭は毎年六月に開催されるらしい。
一年生にとっては、やっと学校とクラスに慣れ始めた辺りの時期だ。
秋はイベントが多い季節だし、クラスの団結を培うには、実はこの時期が最適なのかもしれない。
LHRの時間、帝光祭の出し物についてクラスで話し合った。
私達のクラスは黄瀬君がいる事もあって、コスプレ喫茶に落ち着いた。
でも、ただのコスプレ喫茶では面白くないので、ホラー風味を加味する事になった。
その切っ掛けになったのは、私の余計な一言だけど。
男子達(と言いながらターゲットは黄瀬君)に、どんな格好をさせるかとの話し合いになった時、執事!とか王子様!とか色々とアイデアが出た。
しかし私が『…吸血鬼』とぼそりと呟いたのが周りに響いてしまい、それが女子達に大ウケしてしまった。
「吸血鬼っスかー!?」
『少し腹黒い黄瀬君には丁度良いかな? ってw』
「腹は黒くないっス! 白いっスよ、ホラ!!」
『見せるなっ!!』
黄瀬君がシャツを捲ろうとした途端、女子達から黄色い悲鳴が飛ぶ。
煩くて話が出来なくなる前に、担任がそれを制止する。
『狼男とか、フランケンシュタインじゃないから別に良いじゃない?』
「良くないっスよー! じゃあ女子達はどうするんスか? 綽名っちのメイド服楽しみにしてたのに、幽霊姿じゃ萌えないっス!」
『すんな! 萌えるな!!』
黄瀬君は、悪企みした様な表情で笑った。
「まぁ、それでも良いっスけどね。でも俺がコスプレするなら、綽名っちのメイド服姿と引き換えっスよ!」
『何その交換条件っ!?』
既にメイド+執事喫茶は上級生のクラスでやる事に決まってたので却下され、結局私達のクラスはホラー喫茶で落ち着いた。
私は料理とお菓子が作れるので、裏方担当になった。
裏方ならコスプレの必要はない。
だが、それもこの黄色い男のせいで、裏方なのにも関わらず、私は特別にメイド服を着せられる事になってしまった。
『でも、これ、ホラー喫茶だよね? 私だけメイド服ってどうなの? 裏方だけど!?』
「大丈夫! それもちゃんとコンセプトに合わせた服にするから!」
自信満々のクラスメイトの言葉に、私は渋々引き下がるしかなかった。
…コンセプトに合わせるって…ホラーなメイド服ってどんなだろ…?
※※※
「苗字」
緑間君は、休み時間に私の教室にやって来た。
「今度はこれをやるのだよ」と、楽譜を手渡される。
緑間君が持って来た楽譜は、ショパンのメドレーの連弾用に編曲した楽譜だった。
『何これ。…本格的じゃん?』
「来週までに譜読みをして最低限弾ける様にしておけ。俺のパートの分も覚えるのだよ」
『ショパンなだけに、豪華なラインナップだねー…連弾初心者の私に弾けるかな?』
「難易度が高い曲は弾き易く編曲したのだよ。苗字なら弾けるだろう」
『……頑張れば何とか弾けそうだね! パートは?』
「俺がセコンド(低音部)、苗字がプリモ(高音部)だ」
『了解!』
彼は去りかけようとして一旦足を止め、私を振り返った。
「言い忘れていた。帝光祭の午後一の予定は空けとくのだよ」
『…へっ?』
「絶対にだ。忘れるな」
帝光祭……?
何で…予定なんて…??
キョトンとしながら緑間君を見送った私に、からかい交じりの声が飛ぶ。
「何ー? 名前ちゃん、彼氏と文化祭デート!?」
『は? 彼氏じゃないし!』
「またまたー! デートのお誘いでしょー? あれは!」
『そんなんじゃないよっ!』
「と言いつつ、顔が赤いよー!」
クラスメイトに冷やかされ、私の顔が熱を持って行くのが分かる。
でも…緑間君は恋愛には疎いタイプだと分かってはいても、どこかで期待してしまっている自分がいる。
……変なの。私…別にそんな風に彼を想っている訳じゃないのに。
彼の思惑は分からないけど…帝光祭で一緒に回ろうと誘ってくれたつもりなんだろうか?
私は否定したけど、心の奥底が甘くときめくのは止められなかった。
休み時間、購買で青峰君に出くわした。
「おう苗字! 帝光祭、楽しみにしてるぜ!」
彼の言葉に私は軽く首を傾げる。
帝光祭…ってホラー喫茶の事だよね…?
彼も私がメイド服着るって聞いたのかな?
『私…裏方だから、メイド服着ても表に出ないよ? デザートや軽食は作るけど』
「は? おめー、何言ってんの?」
『うちのクラスの出し物の話でしょ?』
「ちげーよ! おめー、確か緑間と一緒にステージ申し込んだろ?」
『…はぁ!? 何それ、初耳だけど!?』
「確かピアノを二人で弾くつってたよーな…連弾って言ってたか」
『ピアノっ!?』
「おめー、ピアノ弾けんだな? 見かけによらねーじゃん?w ま、クラシックなんて、たりー曲弾いたら寝ちまうけどな、俺は!」
彼の言葉を聞いているうちに、血の気が音を立てて引いて行く。
マジか。つか、私に無断で何やってんじゃー!?
…もしかして午後一で空けとけ、と言ってたのは…これか!?
私は頭を抱えた。
※※※
『緑間君っ!!』
昼休み、私は音楽室に駆け込んだ。
「苗字、煩いのだよ。廊下は走るな」
『帝光祭のステージに、私と緑間君との連名で申し込んだって本当!?』
ピアノに向かっていた彼は、私の方に向き直った。
「…事実だ」
『何で!? 取り消してよ!』
「無理だ。講堂のステージは申込者の数に対して使える時間が少ない。過当競争なのだよ。
一年生の二人だけの参加など、本来は、とてもじゃないけど許可など取れるものでは無い。
だが赤司が協力してくれた。軽音部の前座として捻じ込んでくれたのだよ。それを今更変える事は出来ん」
『あっ…赤司君まで巻き込んだのかー!??』
つか、赤司君は私達と同じ一年なのに…? 生徒会まで動かすとか何者なのー!!??
緑間君はカチャリと眼鏡のブリッジに手を掛けた。
「別に不思議な事ではあるまい。赤司は副会長なのだからな。
これでお前はもう引く事は出来ん。分かったら練習を始めるぞ。時間が無いのだよ」
『そんなー!? やっとここでは弾ける様になったけど…人前でなんて!!無理だよ!!!』
「あっ、コラ待て!?」
私は逃げ出そうと音楽室の扉に手を掛けた。
しかし緑間君に捕まり、羽交い絞めにされる。
『きゃっ!?』
「往生際が悪いぞ! 観念するのだよ、苗字!!」
私は後ろから軽々と緑間君に持ち上げられ、手から扉が離されてしまった。
私の背中に緑間君の体温が感じられ、心拍数は否応も無く上がっていく。
『緑間君…っ!! 離して!』
「…離したら苗字は逃げるのだろう?」
『……っ!!』
緑間君の口が私の耳近くに寄せられる。
彼の深くて甘い声が私の気持ちを乱れさせた。抵抗する力が抜けて行く。
「今更逃げても無駄なのだよ。俺達の出番は午後一だ。クラスのシフトは必ず空けておけ」
『…緑間君っ』
「俺は覚悟しておけ、と言った筈だ。やるからには徹底的にやる。人事を尽くすのだよ」
緑間君は、まだ私を解放してくれなかった。
後ろから肩と腰に腕が回され、私をギュッと締め付ける。
まるで…これじゃ…抱き締められているみたいだよ。
以前、黄瀬君にも同じ様に抱えられた事はある。
でも、どうしてだろう?
あの時とはまるで違う。
今は心臓が激しく脈打ち、壊れそうだ。
身体の奥底が熱くなって、恥ずかしさを伴う甘い疼きを感じる。
いや…いくらなんでもまさか。こんな…身体は大きいとは言え、まだ彼は中学1年生だ。
『逃げない…っ!! もう、逃げないからっ!!!』
私の悲鳴に近い言葉に、彼は漸くゆっくりと身体を離した。
「……その言葉、忘れるな」
眼鏡を直した彼の指の隙間から見えた顔は、薄らと赤く染まっている。
私と目が合った時、彼は軽く顔を顰めた。
「渡した楽譜の譜読みはして来たか? ゆっくり弾くから合わせるのだよ」
-緑間side-
また苗字に逃げられてしまうと思った瞬間、考える間もなく身体が動いた。
咄嗟に羽交い絞めしてしまった時、俺はしまったと思った。
仮にも女子に対して、こんな手荒な事をしてしまったのは初めてだ。
でもそれ以上に俺は、すっぽりと納まった彼女の小柄な身体に感じた柔らかさと甘い香りに、眩暈と甘い動悸を覚えた。
それがあまりにも気持ち良過ぎて、もっと感じていたくて。
一瞬手放す事が惜しい程の強い誘惑に駆られた。
俺は意識を切り替えようと頭を振った。
…何を考えているのだ、俺は。
今は苗字を元通りにし、俺なりの落とし前だけは付けねばならんと言うのに。
俺の心臓が鳴り止まないのは…身内以外の異性に触れる事に慣れてないからだ。
…きっと、それだけの事なのだよ。
俺は騒ぐ心を彼女に悟られない様に、眼鏡に手をかけるふりをして火照る顔を隠した。