秋季昇格テスト
朝、教室に行く途中急いでいたら、廊下の曲がり角で誰かと衝突した。
「…大丈夫か?」
低く耳に心地良い声に私は顔を上げる。
『…っ!? 緑間君!?』
私は慌てて身体を離そうと後ろに足を戻したが、ごろっとした何かを踏み付けて再びバランスを崩した。
「おい!?」
『きゃっ!?』
私は後ろに倒れ、私の腕を掴もうとした緑間君もつられて転んでしまう。
『…っ!!?』
私は廊下に尻餅を突いて座り込み、緑間君は私に被さる様に左右に手を突いた。
お互いに至近距離で見つめ合ってしまい、固まったまま動けない。
この姿勢…嫌が応にも昨日の下駄箱での出来事を思い出す。
私はドキドキして、徐々に顔が熱くなってくるのを感じた。
恥ずかしさに耐えられなくなった私は、ついと視線を逸らす。
『…ご、ごめん』
「……苗字。廊下は走るな!」
『うん…? 何これ…』
どうやら私はこれを踏んだらしい。
目の端に転がっていたスプレー式掃除用洗剤を拾おうと手を伸ばす。
と、同時に彼もそれに手を伸ばした。私が掴んだ上から彼の手が乗せられる。
私はびくりと身体を震わせた。
『これ、どこのクラスのなの…?』
「苗字、手を離すのだよ」
『…は?』
「これは今日の蟹座のラッキーアイテムなのだよ」
緑間君は顔を顰めて厳かに告げるが、その前にこれは何なのだよ。
『…緑間君こそ手を離してくれないと、私の手も退けられないよ?』
彼の手は、私の手ごとしっかりと握っていた。
「…!? す、すまない!!」
彼は真っ赤になって狼狽え、バッと勢い良く手を離した。
…何だかその離し方は地味に傷付く。
彼は私から視線を外し、眼鏡を直しながら顔を背けた。
※※※
今日は秋季昇格テストの日。
私は記録係として手持ちのファイルに、選手達の出した数値を記入し続けていた。
「ショットクロース…10本中4本…次!」
一通りの計測を終え、私は他のマネージャー達と共に選手達の計測値を整理して提出した。
私はこっそり黒子君の記録用紙を覗き見た。
彼の成績は、パスとスティールとキャッチ力と機敏さはそこそこの数値だが、他は三軍の中でも、お世辞にも良い数値とは言えなかった。
つか、シュート能力、ドリブル、ボール保持能力、スタミナ…どれもが全体的に低い。
それに今回は、どの選手もいまいちパッとしない。
この能力数値では、どの選手でも一軍はおろか二軍行きも無理じゃね…?
黒子君の能力は予め知っているけど、それに目覚めるには確か切っ掛けが必要だった筈。
転生前の朧気な記憶を繋ぎ合わせると、赤司君の顔が浮かんだ。
そうだ。確か―赤司君が彼と会う筈だ。
コーチが全員に結果を告げた後、黒子君を呼び出した。
それから彼は姿を消した。
私は一人残り、片付けをして黙々とボールを磨いていた。
今日は黒子君は残ってなく、私一人だけだった。
彼は先に帰るなら連絡をくれる筈。何度か連絡したけどまだ返信は来ない。
一人だけの体育館はとても広くて静かだった。
いつもはドリブルやスキール音が反響し、選手達の掛け声で溢れる体育館なのに、今では小さな音でもやけに大きく響く。
「お、名前! テツはどーした?」
青峰君がひょいと入口から顔を覘かせた。
『…青峰君、黒子はまだ来てないよ』
「へぇ。珍しい事もあるもんだな」
『今日は秋季昇格テストがあったから』
青峰君は座り込んでいた私に目線を合わせ、彼もしゃがみ込んだ。
一転して真面目な表情で聞いて来る。
「…テツはどうだった?」
『…正直、あまり良くない。今回は昇級者はゼロ』
「そっか……」
彼は項垂れた。
『まぁでも、黒子は戻って来るよ』
「…そうだな」
青峰君は立ち上がると、私が磨いたボールを取り出し、一人でドリブルを始めた。
先程まで静寂が支配していた体育館に、重くて鋭いドリブル音が響く。
さっきまで三軍の選手達のドリブルを見ていた私からすると、素人目にも違いは歴然としていた。
やっぱり一軍は…青峰君は凄いな。
「昨日の事だけどよ、おめー…緑間とどーなってんだ?」
『…は?』
「いや…あれってさ、母ちゃんの観るドラマとか、さつきの読む漫画とかに出て来るシーンみたいだったからよ…」
言いながら彼は軽くレイアップでボールを放ると、ボールはゴールネットを揺らしながら吸い込まれ落ちた。
上手な人がやると、いとも簡単そうに出来てしまう様に見える。
「まさかあの緑間が、あんな事するとか有り得ねぇって感じだろ。おめー、ヤツとデキてんのかよ?」
私は思わずボールを取り落した。
『…っ!? でっでで…デキてなんかいません!!!』
「あれ、完全にヤツはその気だったんじゃねーの? 何つーか…二人だけの世界ってやつ?」
いつもは恋愛のレの字も無いのに、今回はやけに食い付いているのは何なの? 思春期なの?
思い出すと顔が熱くなって来るからやめろ。
「顔赤ぇぞ? おめー…もしかして」
『…放っておいてよっ!』
何で青峰君まで顔を赤らめているの!?
私が思わず突っ込むと、青峰君は頭をがりがりと掻いた。
「何かこっ恥ずかしくて落ち着かねーんだよ…! 見ちゃいけねーモンを見ちまった感じでよ」
『だから忘れろ』
……まだ今の彼はピュアだった。
『でも青峰君って少女漫画読むんだね。想像すると面白いw』
私がクスクス笑うと彼は苦りきって顔を顰めた。
「さつきの家行くと押し付けられんだよ! これ読んで女の気持ちを少しでも分かれってよ」
『…で、分かったの?』
「全然分からねぇ」
おっし! 話題逸らし成功っ!!
気が付いたら八時半を過ぎていた。そろそろ最終下校時刻になる。
『…やっぱ遅いね』
「初めてだな、こんなん…」
『念の為、荷物見て来ようか?』
「あ、ああ…ってテツ!?」
青峰君の声に振り向くと、制服姿で鞄を持った黒子君が悄然とした様子で立っていた。
「……青峰君、苗字さん。バスケ部を…辞めようと思います」
青峰君は一瞬絶句し、怒った様な口調で問い詰めた。
「はあ!? 何でだよ!?」
「バスケは好きです。…けど入部してから半年…やはり向いていないものはどうしようもありません。
ましてやこの帝光中学校では、僕はとてもチームの役に立てそうにありません」
ああ…ここのシーンは見覚えがある。
青峰君は黙って真剣な表情で聞いていたが、おもむろに口を開いた。
「……バスケに必要ない選手なんていねーよ。
例え試合に出られなくても…一軍の奴等より、文字通り誰よりも遅くまで残って練習してるヤツが、全く無力なんて話あってたまるかよ。
少なくとも俺は、そんなお前を見て尊敬してたし、もっと頑張ろうって思えたんだ。
諦めなければ必ず出来るとは言わねえ。けど諦めたら何も残らねえ」
彼の真直ぐな言葉に私は口元が綻んだ。
でも黒子君は沈黙したまま。
「……」
「おい」
青峰君は、私を小突いた。
『痛っ…!? 何?』
「おめーも何か言えよ!」
こんないい場面で何で私に振るかな。
『…いや、青峰君が全て言ってくれたし。でも…そうだな、私は黒子のバスケが観たいな』
黒子君は目を見開き瞬いた。
「……僕の…バスケ…ですか?」
『うん。黒子の…諦めない黒子ならではのバスケをね。これは単なる私の我儘だけど?』
「……」
黒子君は苦し気な表情で黙りこくった。その時
「青峰。最近見ないと思っていたら、こんな所にいたのか」
赤司君が登場した。後ろには緑間君と紫原君を従えていた。
緑間君は今朝のラッキーアイテムを抜かりなく持っている。
赤司君の目が黒子君に止まった。
「彼は?」
「ああ…いつも一緒に練習してんだ。名前はテツ」
紫原君は黒子君が三軍なのを聞き、興味を失ったみたいだが、赤司君は食い入るように黒子君を見ていた。
「面白いな…初めて見るタイプだ。もしかしたら俺達とは全く異質の才能を秘めているかもしれない」
※※※
赤司君に人払いされ、先に帰る様に促されたけれど、こんな名シーンを見逃す訳にはいかない。
紫原君はとっくに帰ってしまった。
着替えに戻らなければならない時刻だけど、私と青峰君はどうしても成り行きが気になって、体育館の入口から中を窺い見ていた。
『へぇ…面白い成り行きになったね』
「…赤司の事だ。何か考えがあるんだろーよ」
緑間君が軽く私達を窘める。
「お前達、いい加減に着替えて帰る支度をするのだよ!」
そろそろ下校時刻だと言われて、私達は慌てる。
「あっ、いけねぇ! じゃ名前、またな!!」
『あっ! そうだね。門閉められちゃうね』
私と青峰君はバタバタと其々の更衣室に駆け込んだ。
※※※
-緑間side-
…青峰と苗字以外にも、もう一人いたのか。
確かに保健室で青峰がそれっぽい事を言っていた様だったが。
赤司が一目置いたヤツは、一見ひ弱そうで存在感が薄くて、とても優秀な選手には見えなかった。
試合の流れを変えたい時の6人目…? まさか…ヤツがそうだと言うのか?
青峰と一緒に居残っていた苗字が気にかけているのもそれで…なのか?
苗字と青峰…
彼等の事を考えると胸の奥がズキンと痛み、息苦しくなる。
苗字は俺といる時よりも、青峰といる時の方が屈託なく楽し気に笑っている様に見える。
俺とは…始めの頃は逃げられてばかりで…この違いは何なのだよ。
全く…不愉快極まりない。
俺といる時と、全く違う顔を青峰に見せる苗字に苛々するのだよ。
昨日はそれが抑えられなくて、彼女にそのままぶつけてしまった。
俺はそんな自分に落ち込み、情けなくなる。
冷静でいたいのに、自分の奥深くの感情を乱されて、まるで自分が自分で無くなるみたいで…恐怖すら感じる。
今回の事も…あの二人が共通の認識を持っているらしい、あの少年…
赤司すらも興味を持つなら、アイツに何かはあるのだろう。
だが、俺にはとても信じられん。
紫原はともかく、俺はよく分からないが故に一人置き去りにされた気分だ。
俺は深く溜息を吐いた。
…自分でもこの渦巻く感情をどうしていいのか分からない。
俺は自分の感情を持て余しつつ、その影の薄い少年と赤司の会話に耳を澄ませていた。
間もなく扉が開き、赤司が出て来た。
「緑間。聞いていたのか」
「お前が一目置いた奴がどんなものか気になったのだよ」
俺達は体育館を離れて歩き出した。と、その時にバタバタと足音がした。
『…あ!? 話終わった?』
苗字は息せき切って尋ねて来た。
「見ての通りなのだよ」
『そっか。じゃ…』
「苗字さん」
赤司は通り過ぎようとした苗字を片手で制した。
彼女はぎょっとして立ち止まる。
『赤司君?』
「一つ…聞かせてくれないか? 何故君は、黒子君に付き合って遅くまでいたんだい?」
『…え?』
「三軍ならもう練習は終わっている。君と黒子君とは…どんな関係なんだ?」
それは俺も是非聞きたい所だ。
『…あ、いや、えーと…?』
彼女は記憶を探る様に首を傾げた。
『あー…確か私、幽霊と勘違いして…
黒子の顔に悪霊退散の札を貼ってキョンシ―にしたんで、怒らせたお詫びに付き合わされたんだっけ…?』
あまりにも気の抜けた返答に、俺と赤司は絶句してしまった。
『いやだから、何で二人して沈黙するの…?』
悪霊退散の札…?
それは確か、第四体育館の幽霊の話を聞いて、俺が苗字にあげたものではなかったか。
……何て事なのだよ。
俺は額に手を当て、深く溜息を吐いた。