If-帝光編(二年)


悪夢の日


私は雨の中をひたすら走っていた。
一体何が起きたのか?

前兆はあった。
でもどうしたら良いか分からず、ずっと手を拱いていた結果がこれだ。

真田監督が青峰君に言った事は、きっともう取り返しが付かない。
まさか監督自身があんな事を言うなんて…!
白金監督が聞いたらどう思うだろう?

『あっ…!?』

黒子君がふらふらとした足取りで、こちらに歩いて来た。

「…苗字、さん…」

彼の放心した顔を見れば、何が起きたかは大体の想像がついた。

『黒子、大丈夫!? 青峰君は!?』

私は慌てて彼の顔と頭をタオルで拭き、傘を差しかけた。

「…青峰君…は…まだ河原にいる、と思います…僕は…もう…
青峰君は…僕のパスをどうやって取ればいいか…忘れてしまった、と―」

言うなり、黒子君の瞳から堪え切れない涙が滴り落ちた。

『黒子…!』
「僕は…一人じゃ何も出来ない…!! 青峰君は…もう、僕を必要とはしていないんです…!!」

彼の慟哭は、ただ静かに雨の音に飲み込まれていった。

※※※

私は黒子君に傘とタオルを押し付け、引き続き青峰君を探しに行った。
だが、足は鉛に纏われたかの様に重かった。
頭も重くてガンガンと痛い。
朝からの微妙な体調が悪化している。

私は青峰君を探しながら自問自答していた。

青峰君と黒子君の間に、更に取り返しのつかない亀裂が入ったのが明らかになった今、私に一体、何が出来ると言うのだろう?
今の青峰君には片割れの声すら届かなかったと言うのに。
この運命は変えられないのか?

河原を探していたら、橋の下で川面をただ見つめ立ち尽していた青峰君を見付けた。
彼の表情までは見えないけど、まるで抜け殻みたいになってしまった様に見える。
私はそんな彼に恐る恐る声をかけた。

『…青峰君』

彼は誰にも手の届かない所に行ってしまった。
そんな青峰君の孤独な気持ちは分からない。

でも私も、誰にも言えない別の孤独を内包している。
何も出来ないのは分かっているけど、私はただ、今の彼を放っておけない。

「…何だ? 今度は名前かよ?」

今の彼の声音はぶっきらぼうで、誰にも構って欲しくないのがありありと現れていた。
私は敢えて構わずに、彼にタオルを押し付けた。

『このままじゃ風邪ひくよ。…とにかく、戻ろう?』
「うるせぇよ。同情ならイラネってんだよ! 帰れよ!」

青峰君は手荒く私を振り払った。

『あっ…!?』

私は彼に振り払われた勢いで、足を滑らせバランスを崩す。

「名前っ!!?」

次の瞬間、私は川に落ちた。
幸い、川の落ちた場所は浅く、私は尻餅を突いただけだったが、背中と下半身はずぶ濡れになってしまった。

「…くそっ…! 悪ぃ。怪我はねぇか?」
『大丈夫…』

青峰君は私の腕を掴んで引き上げた。
彼は決まり悪げに目を逸らした。
彼の目は赤く、頬には涙の痕が残っていた。

『頭下げて』
「…は?」
『青峰君背高いんだから、頭下げなきゃ拭けないでしょ』

青峰君は呆れた様に私を見やった。

「…おい。いや、ずぶ濡れはおめーの方だろが!?」
『いいから!』

私は強引に青峰君の頭を下げさせると、タオルでごしごしと拭いた。

黒子君もダメージを負っていたが、青峰君も酷い状態だ。
今日は無理に戻らせるより、一旦帰らせて落ち着かせた方がいいかもしれない。

「…名前…」
『もう今日は部活終わっちゃったし帰ろうか? 赤司君には私から言っておくから…っ!?』

瞬間、私は青峰君に抱き締められていた。

「……っ!」

私の頬に熱い雫が滴った。
それは雨か、濡れた彼の雫か…それとも彼の涙か。

彼は歯を食いしばり静かに泣いていた。
時折、彼の堪えきれずに漏れ出す嗚咽が雨音にかき消されていく。

いつか、この日が来る事が分かってはいた。
でも結局、私は無力で―何も出来なかった。

ごめん…なさい。青峰君…黒子。

私は彼の背に腕を回し、ただ抱き締め返した。


※※※


俺は込み上げる気持ちのままに名前を抱き締め、細い肩に顔を埋めた。
もう全てが空っぽでぐちゃぐちゃな気持ちだ。

何で…っ、俺はただ…好きなバスケを思いっ切り楽しみたいだけなのに。
テツにまで酷い事を言った。
でもそれは今の俺の正直な気持ちだ。

ただ以前は上手くなりたかった一心でボールを追いかけていた。
上手くなった後の事なんて考えてもいなかった。

俺はただ、強い敵に勝ちたいだけだ。
でも、その敵がいなくなってしまった。

恐ろしい程の孤独をほんの少しでも紛らわせてくれるのは、今俺が縋り付いているこの小さい身体だけだ。

「名前…っ!」
『青峰君…っ、腕緩めて。少し苦しい…よ』

その時、俺は気付いた。
…ずぶ濡れの筈のコイツの身体がやけに熱い。

「おめー…まさか。熱があるんじゃ―?」

言い終わらない内に、不意にその身体の重みが増し俺の腕にかかった。

「おい名前っ!?」

名前は気を失い崩れる様に倒れた。


※※※


目を覚ました時に、見慣れぬ天井が見えた。

「よぉ。気分はどーだ?」
『…青峰君…』

何故青峰君がいるの?
気が付いたら、私は和室に布団を敷き寝かされていた。

『ここは…?』
「ん? 俺ん家だ」
『…へ?』
「おめーはあの時気絶したから、俺がおぶって連れて来たんだよ。
服もずぶ濡れだったし熱もあるしで放っておけねーだろ」

服…? あれ!?

私は自分の身体を見下ろした。
いつの間にか私はダブダブなTシャツを着ていた。

『私の服は!?』
「ん、着替えさせた」
『は…!?』
「ばぁか! 俺じゃねーよ、お袋が。それ俺のだけど我慢しとけ」

…はぁ。驚いた。

青峰君は布団の横に胡坐をかいた。

「ま、別に俺がおめーを着替えさせても良かったんだけどよ。
おめーを連れ帰った時、お袋すげー驚いててな。さつき以外の女を連れて来たって。大袈裟なんだよ一々。
そのままじゃどーにもなんねーから、風呂場で着替えさせるって俺は叩き出された」

『青峰君にもお母様にも世話かけさせちゃったね。ゴメン…』
「全くだぜ。で、おめーの服は今洗濯中。お袋は今は買い物に出てる」
『そっか…』

「起きたら家に連絡入れさせろだとよ。ほれ、俺の携帯貸しといてやる。
お袋が、洗濯終わったら後で家に送らせるから今は休んでろ、だとさ」

私自身の携帯は、荷物と一緒に学校の更衣室に置きっ放しだ。
私は自宅と監督に連絡を入れた。

『…青峰君、ゴメンね』
「今日のは不可抗力だろ? 俺もおめーを川に突き落としまったからな」

私は彼等の為に出来る事をしたかっただけなのに、反って迷惑をかけてばかりだ。
よりによってこんな大変な時に…

私は混乱して纏まらない思考のままに目を閉じた。
髪を撫でられた感触に薄目を開けたら、青峰君がぼんやりと私の頭を撫でていた。
優しい感触に再び目を閉じて、引き摺られる様に眠りに落ちて行った。


「……おい、起きろ名前!」
『すぅ…』
「起きねーと襲うぞ?」

何か凄くヤバい気がして、私は唐突に目が覚めた。

「お、起きたw じゃ今度からはこれで行くか」
『きゃっ!?』

寝惚け眼だった私は、不意にでこピンされて痛さに涙が滲んだ。
青峰君は私にジャージを放った。

「乾いたから、これ着て出ろ。送ってってやる」

私は青峰君と一緒にタクシーに乗り込み、家に向かった。
家の前で下りた私達は、誰かがそこに立っていたのに気が付いた。

「…苗字!? 何故青峰と一緒なのだよ?」
『緑間君!?』
「はぁ!? テメーこそ何で名前ん家の前にいるんだよ!?」

緑間君は、鞄二つと大きな紙袋を持っていた。

「監督から苗字が先に帰ったと聞いたが、学校に荷物を置きっ放しだから持って来てやったのだよ。制服が無いと明日困るだろう」
『わ…わざわざゴメンね、ありがとう』

緑間君は私に荷物を渡すと青峰君に向き直った。

「青峰。どう言うつもりだか知らないが、部活中に勝手に出て行き、更にマネージャーまで連れ出すのは感心しないのだよ」
「んだと…!? 俺は今、最悪な気分なんだ! 喧嘩なら喜んで買ってやんぞ緑間!!」

「ふん、反論出来ないと、すぐに暴力に訴える気か? 不問にされるからとやりたい放題とは良い身分なのだよ!」
「てめぇ…!!」

一触即発の空気に私は慌てた。
緑間君は今の状態の青峰君に、こんな事言う人じゃないのに。
緑間君も相当気が立っている。

『止めて二人共…! 緑間君、これは私が悪いの!』

私は緑間君と青峰君の間に割り込んだ。

『んっ…!?』
一瞬、クラリと眩暈がして足をよろめかせたが、何とか踏み止まる。

「苗字…?」
『わっ!?』

緑間君は私を引き寄せると、額に掌を押し当てた。

「かなり熱があるのだよ…!」
「ああ。コイツ、ずぶ濡れで俺を連れ戻そうとして倒れやがったから、仕方なく家に連れて帰って休ませたんだ。文句あっか!」
「学校に連れ戻せば良かったのだよ」
「あん時は戻りたくもなかったし、監督直々に練習に出ねーでいいって言われたし。
それに、もう保健室も閉ってただろ、あの時間じゃ」

緑間君は得心がいった様に呟いた。
「…それでタクシーなのか」

その時、タクシーの窓から運転手が顔を出した。
「お客さーん、あんまり待たせるとメーター上がっちゃうよ?」

青峰君は首を竦めた。

「やっべ、お袋に怒られる! 俺ぁ帰るぞ! じゃな」
「待て青峰!」

青峰君は構わずタクシーに乗り込みドアを閉め、私達に一瞥もくれずに走り去った。
後には私と緑間君が残された。

『…真太郎君』
「体調は…大丈夫なのか?」
『うん。青峰君のお母さんに服洗濯してもらって、その間少し休んだから、気分はかなり楽になったよ』
「そうか」

緑間君は沈鬱な表情で私を見下ろした。
何か言いた気な彼に、私は首を傾げる。

『真太郎君? どうかしたの?』
「……何でも無い」

彼は労る様に私を抱き締め、優しく頭を撫でた。

「今は…ゆっくり休むのだよ。名前…」
『うん。心配かけてゴメンね?』

私の身体に回された彼の腕は、微かに震えている。
その腕は、縋り付いてきた赤司君や青峰君を彷彿とさせた。

彼も…不安なんだ。

青峰君にも黒子君にも私は何も出来なかった。
せめて緑間君の不安を少しでも取り除いてあげたいと思うけど…私に出来るだろうか?

私は彼の背に腕を回し、抱き締め返した。
そのまま彼の鼓動に身を委ね目を閉じる。

既にまた一つ、取り返しの付かない事態になっていたのを知らぬままに。


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