もう一人の赤司
一晩眠ったら、私の熱は綺麗に治まっていた。
でも身体とは裏腹に、頭の中はまだ色々起こった事が消化しきれていない。
これから一体、どうなるのだろう?
青峰君と黒子君は既に未来が決定してしまった様に見える。
昨日の出来事は突発的なものではない。
ずっと、ここ暫く青峰君が抱えていた鬱憤が爆発しただけに根が深い。
ここで頼りに出来そうな白金元監督は遠くの病院に転院し、真田監督は止めを刺してしまった。
私がもし、この出来事を予め知っていたとしても、止める事は出来なかったかもしれない。
私は朝練に間に合う様に家を出た。
一見、いつもと変わらない風景だが、今日から明らかに彼等の世界は変わってしまった。
私は溜息を吐いた。
学校に着き、更衣室で着替えて体育館に向かう。
体育館の扉は既に開いていたが、まだ静かだ。
私は中に足を踏み入れた。
体育館の中には赤司君が一人だけいた。
既に彼は入口に背を向け準備を始めている。
ボールのカートを引き出している彼の後姿に私は声をかけた。
『おはようございます!』
「ああ名前か。昨日は倒れたと聞いたが、もう大丈夫なのか?」
…ん? 今、私を名前で呼んだ?
彼はこちらを振り向かずに、作業を続けていた。
その背中に私は話しかけた。
『一晩寝たら治ったみたいです。割と丈夫な質なので』
「それは良かった。そっちを持ってくれないか?」
『はい』
私は彼に歩み寄った。
「おはよう」
その時、後ろから緑間君の声が聞こえ、私は振り返った。
『おはよう緑間君、昨日はありがとう。心配かけてゴメンね』
「…苗字!?」
緑間君の顔が引き攣り、驚いた様に私と赤司君を見た。
私はその表情の意味が分からず、首を傾げた。
『どうした…』
最後まで言い終わらない内に、私は後ろから肩に腕を回される。
「やあ真太郎、おはよう。彼女は回復したみたいだね」
『赤司君っ?』
赤司君の声が突然耳元で聞こえ、私は驚いて硬直した。
今、私の肩に腕を回しているのは赤司君だ。
一体、どうしたんだ?
何なのこれ? 突然の赤司君の行動に、私は頭が付いて行けない。
緑間君は鋭く赤司君を睨んだ。
「赤司、苗字を離せ!」
「何をそんなに殺気立っているんだい、真太郎? 僕が彼女に何かするとでも?」
「……」
「それとも…この僕に逆らうとでも言うのかい? 何なら真太郎も僕と1on1やるかい? 敦の時みたいに?」
「…っ、俺はただ…彼女を離せと言っているのだよ!」
「それは命令してるって事だよね? この僕に」
「命令などと…! そんなつもりは」
…は? 逆らう? …赤司君、何を言っているの?
それにこの違和感は。
私は振り向き至近距離で赤司君を見て絶句した。
彼の左目の色は金色がかったオレンジ色になっていた。
これは赤司君が変化した時の色だ。
でも、この状態の彼は暫くすれば元に戻る筈だ。
今まではそうだった。
突然押し黙った私に、赤司君は含み笑いを漏らした。
「名前が何を考えているのか、僕には分かるよ。
暫くすれば、僕が戻るとでも思っているんだろう? 残念だったね」
彼のこの言葉の指し示す意味に、私は愕然とし身を震わせた。
『赤司君…一体…どうしたと言うの?』
「…赤司…」
この彼は知っている。
以前、下駄箱の所で私の肩を掴んで柱に押し付けた彼。
白金元監督の見舞いに行った時、病院の廊下で会った彼。
…そして―初めて会った火神君に鋏を向けた彼と…恐らくは同一人物。
これで黒子君が絶望する未来への因子が揃ってしまった。
でも、一体何故こんな事になったの?
昨日までは、彼は変わり無かった。
私が知っているのは、青峰君と黒子君の仲が破綻してしまった事だが、私の知らない所で何かが起こってしまったのか。
緑間君の態度から、彼は何か知っている様に見える。
『……貴方は…誰?』
赤司君はふ、と口許を綻ばすと、私の肩に回した腕に力を込めた。
「君は何言っているんだい? 僕は赤司征十郎に決まっているだろう、名前」
赤司君は妖しく微笑むと、私から手を離した。
※※※
朝練には、青峰君と紫原君は来なかった。
青峰君は昨日の出来事で来ないだろうと予想は付いていた。
朝練が終わり、着替えて私は教室に向かったが、緑間君が私に追い着き、歩調を合わせて歩き出した。
『紫原君、来なかったね。それにあの赤司君…』
緑間君は眼鏡のブリッジを上げ、「その事なのだが」と呟いた。
その彼の説明で、私の抜けていた時に起こった部内での出来事を知った。
『そんな…っ!?』
「その1on1の前と後とでは、何と言うか…まるで言う事も態度も正反対で、別人の様なのだよ。黄瀬もそう言ってたな」
『…別人…』
確かに、あの赤司君の性格は奇妙だと思っていた。
高校のウィンターカップで初めて出て来た彼はあんなに恐ろしかったのに、それで私は彼に苦手意識さえ抱いていたのに。
帝光で初めて会った彼は、穏やかで優しくて、周囲にも気を配る完璧な少年だった。
私が…もっと彼にも気を付けてれば…っ!
私は臍を噛んだ。
そうすれば、何かを変えられただろうか? 今となっては詮無き事だ。
赤司君が縋り付いて来た時、彼は助けを求めていたのかもしれなかったのに、私はそこまで気が付かなかった。
思えば、彼にも幾つもの兆しがあった。
私は…何も出来てはいない。
緑間君の気持ちを振って…それだけの事が出来ているとでも言うのか?
これからの事に私は…耐えられるのか?
私は込み上げて来る涙を零すまいと歯を食いしばった。
『…ごめん』
「何故名前が謝る? 赤司がああなったのは別にお前のせいではあるまい」
『私…真太郎君の気持ちにも応えてないのに、いつも甘えてばかりで…こんな中途半端な』
緑間君は、私の手をギュッと握った。
「名前、もっと俺を頼るのだよ。お前が抱えた重荷が何であるかは知らんが、一人で持つのが辛いなら、俺が代わりに持ってやる。
…だから一人で苦しむな。俺が常にお前を想っているのを忘れるな」
『真太郎…』
「俺が聞きたいのは、お前の詫びの言葉などではないのだよ」
私の手は彼の手に包まれ、その温かさに堪えていた涙が溢れた。
『ありがとう…』
好きだよ、と心の中でだけで呟いた。
※※※
授業が終わり、私は体育館に一人向かっていた。
「あ、綽名ちーん!」
もうこの呼び方で誰かはすぐに分かる。
『紫原君、部活に出るの?』
「ううん、そうじゃなくってー」
…やっぱり出る気はないのか。
「駅前のケーキ店、秋の新作出たんだってー。ほら〜このカボチャと栗のダブルモンブラン♪」
紫原君は、ケーキ店のチラシをひらひらと振って見せた。
部活に出ない事を除けば、彼はいつもと変わりない様に見え、私は思わずガクリと肩の力が抜けた。
『ははw 凄いね! でも何だか美味しそう』
「なら一緒に行こうよ〜!」
『いいね…って何で私の腕引っ張るの?』
「だってーいいねって言ったじゃん! 行くって事でしょー?」
『今とは言ってない!』
「えー行こうよ〜。今日は半額サービスでセットの飲み物も一つ
『私は部活があるの!』
「そんなの、休んじゃえばいいじゃん」
『良くない!』
彼は私の腕を引きぐいぐいと歩いて行く。
私は懸命に踏ん張るが、そんな精一杯の抵抗など意にも介さない彼に、ずるずると引き摺られた。
『放してってば!』
「やだー。ケーキ一緒に食べ終わったら放すしー」
『せめて休みの日にしてよ!』
「九月のサービスディーは今日だけだしー」
「何をしているのだよ、紫原っ!!」
その時、行く手に緑間君が立ちはだかった。
紫原くんはムッと顔を顰めた。
「何ミドチン邪魔、どいてー」
「これから部活があるのだよ!」
「赤ちん出なくていいって言ってたしー新作ケーキ食べに行きたいしー」
「…っ! 出なくていいと言われて出ないなど、理解に苦しむのだよ!」
「俺、別にミドチンに理解して欲しいと思わねーしー? 俺だってミドチンがラッキーアイテムいつも持っているの、理解出来ねーけど〜?」
「お前は兎も角、苗字は放せ! そんなに食べに行きたいなら、一人で行けばいいのだよ! 苗字を巻き込むな!!」
「ミドチンがそれ言う〜? ミドチンこそ、いつも綽名ちん巻き込んでるじゃん!」
「何だと…!?」
『ちょっとちょっと…!』
不穏な成り行きに、私は慌てて止めに入ろうとした。
だがその時、大きくはないが辺りを圧する声が耳朶を打った。
「騒がしいね。どうしたんだい?」
赤司君だ。
彼は、左目がオレンジがかった金色だった。
やはりまだ戻ってはいない。
「あ、赤ちーん、俺今日休むからさ〜」
「ああ。それで?」
「綽名ちんにケーキ屋に付き合ってもらうから、綽名ちんもお休みねー」
赤司君は目をギラリと光らせた。
「それは駄目だ、敦」
「え〜いいじゃーん。マネならさっちんいるし。別に綽名ちんいなくても問題ないっしょ〜?」
紫原君の正直過ぎる言葉は、私の心に突き刺さった。
…いなくても問題ない。マネなら桃井さんがいる。
そりゃその通りだけど! 私、大して役に立ててないけどっ!
「僕が出なくてもいいと言ったのは、スタメン選手達だけだ。マネまで許可した覚えはない」
「ちぇーっ」
紫原君は渋々私の腕を解放した。
「赤ちんがそう言うならしょーがないなー。じゃ俺、一人で行ってくるねー」
去り往く大きな背中を眺めながら、緑間君は荒く溜息を吐いた。
「全く…紫原にも困ったものなのだよ。…大丈夫か? 苗字」
『うん、大丈夫。緑間君、止めてくれてありがとう。赤司君も』
緑間君は頷き、更衣室に入って行った。
私も女子更衣室に向かおうとしたら、不意に後ろから手首を掴まれ、ビクリと肩を跳ね上げた。
私は怖々振り返った。
私の手首を掴んだ赤司君は、じっと私を見つめている。
彼の紅と金色の瞳が炎の様に揺らめいていた。
…何で赤司君が私の手首を掴んでいるの?
また私、何か彼を怒らせる様な事した?
「名前。僕はアイツみたいに我慢はしないよ」
『アイツ…?』って誰の事?
私は首を傾げたが、彼はそんな私に構わず言葉を続けた。
「アイツは緑間と君の仲を見て引いたけど、僕は違う」
『……へ?』
「僕は名前を緑間に渡す気はない。勿論青峰や紫原にもだ」
『何…?』
「僕は誰よりも優れている。緑間は僕に勝てた事は一度もない。君が誰を選ぶべきかは自明の理だろう?」
すみません。彼が何を言っているのか、私には分りません…
思考と身体がフリーズした私に、彼は艶然と微笑んだ。