失ったもの
あの日から部内の空気は一変した。
青峰君と紫原君は、ほぼ出て来なくなった。
今出ている黄瀬君と緑間君、赤司君、黒子君はいつもと同じ様に汗を流している。
だが表情は硬く、雰囲気がピリピリしていた。
そんな空気を感じながらも、私は以前の赤司君の発言が頭を離れなかった。
それで気もそぞろだったのか、私はここの所、いつもはしないミスを頻発させていた。
飲み物作る配合を間違えたり、洗濯機にうっかり決められた量の倍以上の洗剤をぶち込んでしまったり。
その度に、いけない集中しなきゃと思うのだけど、赤司君の声を聞いたり彼の姿を目にしてしまうと、あの彼の発言が頭の中をぐるぐると回り出す。
あれから赤司君の私に対する態度は、別段特に変わった所はなかった。
でもそれだからこそ、私はもやもやした気持ちを抱えていた。
こればかりは緑間君に相談する訳にはいかない。
確か…赤司君は確か私を緑間君に渡す気がないとか何とか言っていたよね??
そして私が誰を選ぶべきか…って。
そこまで思考を進めると、どうしても止まってしまう。
彼の言っている意味が指し示すもの。
それって…まさか。まさかよね? だってそんな事有り得ないでしょ?
いやいやいや。ないないないって!
「……苗字!」
きっとからかっていたんだ。
そんな私の母が聞いたら狂喜乱舞しそうな事態なんて有り得ないって!
「おい」
私が頭をブンブンと振ったら、頭にゴツンと衝撃が走ったと同時にガシャンと派手な音が体育館内に響いた。
『…ったぁ』
「何やってんスか、もー!」
「自分からぶつけていたのだよ」
「…苗字、怪我はないか?」
私の足下にはスコアボードが倒れていた。
激しく頭を振ったので、勢い余ってボードに頭をぶつけてしまったらしい。
「大丈夫か?」
緑間君が私の額に手の平を当てた。
『う、うん。…多分』
「赤くなって少し膨らんでいる。保健室に行け」
さつきちゃんが私の腕を掴んだ。
「あ、じゃあ私が連れて行ってあげる!」
『あ、いや…大丈…』
「行こ! 名前ちゃん!」
彼女は有無を言わさず、私を引っ張って行った。
『ゴメンね。忙しい時に』
「ビックリしたよー。いきなりゴチ!って派手な音がしたんだもん」
彼女の呆れた様な視線から、私は目を逸らした。
その時に考えていた事なんて、言える筈がない。
『あ、あれはねー…ははは。もし青峰君に見られたら、何て言われるか…』
「……」
不意の沈黙に視線を上げると、さつきちゃんの大きな瞳が潤んでいた。
『あっ……』
私、無神経な事言った…!
『ご、ゴメン!』
「…ううん。いいの。ただ…ね、青峰君はもう…」
さつきちゃんが俯きながらぽつぽつと話し出した。
「青峰君ね、何度私が声かけても、部活に出ようとしないんだよ…
暇そうに屋上で寝転がっているのに。試合には出るからいいだろうって、そればかり。
…赤司君の事も…前と変わったよね、って言っても知らねー、関係ねーって。
もう…何もかもがどうでも良くなっちゃったみたい」
さつきちゃんも、赤司君の事気が付いている。
彼女も緑間君と一緒に赤司君が変化した所を目の前で見てた筈だから。
「ずっと…皆で一緒に仲良くしていられると良いのに。もう…皆、どうなっちゃうんだろ?」
『さつきちゃん…』
「昨日の練習試合も…皆凄く強くなってて、青峰君も30点以上も取って。
もう私のサポートなんか要らない位に…でもチームワークとかなくて。そんなの…寂しいね」
ぽろぽろと涙を零す彼女の手を、私はただ黙って握っている事しか出来なかった。
手当を終えて、体育館に戻った私を緑間君が出迎えた。
彼は、私の手に小さな丸いクッションを乗せた。
「持っていろ。今日の蟹座のラッキーアイテムなのだよ」
『…緑間君のは?』
「問題ない。俺はもっと大きな物を持っているのだよ」
…そういや、今日のおは朝見てないや。
クッションがラッキーアイテムなのか。
『…ありがとう』
「話せる悩みなら、聞いてやらん事もないのだよ。部活が終わってからな」
さり気なく気を使ってくれる緑間君はやはり優しい。
彼は変わらないでいて欲しい。
それが今の私の心からの願いだ。
※※※
部活が終わり、私は部室で一人、日誌を付けていた。
緑間君は着替えたら待っててくれると言っていた。
あまり彼を待たせる訳にはいかない。
私はペンを走らせる事に集中した。
部室に赤司君が入って来た。
「終わったかい?」
『もうあとちょっと…』
「じゃあここで待つよ」
私はチラリと彼を横目で見た。
もう彼のオッドアイは、すっかり見慣れてしまった。
両目とも紅色の彼とは、もうずっと会ってない。
二人きりの室内には、私のペンの音だけが響いていた。
全て書き終わると私は彼に日誌を手渡し、自らを落ち着かせる為に深呼吸をする。
このままでは、どうにも落ち着かない。今こそ、あの事を聞くまたとないチャンスだ。
私は思い切って口火を切った。
『…赤司君、聞きたかった事があるんだけどいい?』
「何だい?」
『あの…っ以前私に言った、私を緑間君や青峰君に渡さないとかって…冗談よね?』
彼は日誌を閉じると、ゆっくりとした所作で私と向き合った。
『赤司君が、らしくもなく私をからかうからびっくりしたよ! そんな冗談言うんだなって』
「生憎だが名前、僕は冗談なんか言わない。本気だ。
そのように思われていたなんて心外だな」
『…え?』
赤司君は日誌を閉じて机の上に置き、座ってた私の傍に立った。
彼は屈み込み顔を近付け、私と目線を合わせる。
彼の燃える様な紅と強く輝くオレンジがかった緋色の瞳に射すくめられ、私は身体を動かす事はおろか、視線を外す事すら出来なかった。
「僕は心に叶わない女を、他の男に渡さないなど言わない」
『何で!? 貴方、以前の赤司君と別人なら、私とはそんな…殆ど関わりなんかなかった筈でしょ? 私、貴方に一目惚れされる程の器量でも無いし!』
…ちょっと自分で言ってて悲しくなって来た。
「…君は…僕とアイツが別人だと思っているのか?」
『別人と言うか…そうね、私は貴方の中に、もう一人の赤司君が居るんじゃないかと思っているわ。
いいえ、違う…以前の赤司君の中に貴方がいた…人格交代した、と言う所かしら?』
「……ふっ」
彼は口の端を緩め、愉快そうに笑った。
「気が付いていたのか。流石奴が気に入った女だけの事はある…」
あの赤司君が私を気に入っていた…?
口を開けて唖然と固まった私に、彼は低く含み笑った。
「何だ、気が付いてなかったのか。君も存外に鈍感だな」
『…嘘…』
「嘘なものか。確かにアイツと僕は別人格だが、同時に同一人物でもある。ヤツの気持ちは良く分かるよ。
そして僕はずっと中にいたが、ヤツと一緒に同じものを見ていた。
だから君は僕にとってはアイツと同じ時間、ずっと関わっていた相手と言っても過言ではない」
彼は両手で私を閉じ込める様に、椅子の背を掴んだ。
「…だから名前、僕のものになれ。真太郎ではなく僕を選べ」
『あ、赤司…君、やめて…離して』
彼は更に屈み込み、私に顔を近付けた。
そのまま、唇同士が触れ合いそうになる。
駄目…っ!
私は仰け反る様に上半身を僅かに捻った。
その時、空気を押し潰す様な異様な音が響いた。
ブウッ!
…何? この音??
赤司君は瞬間固まり、戸惑った様に身体を引いた。
彼は秀麗な顔をむっつりと顰めている。
「全く…こんな時に…何をやっているんだ、君は?」
『は…? え??』
この変な音って…私なの!? つか、私何もやってない!
でも赤司君は、その異音は私が原因だと確信している様だ。
「興が削がれた」
私は、部誌を持って部屋を出て行こうとした赤司君の背中に疑問をぶつけた。
『待って、あと一つだけ教えて。人格変わる前の彼は…もう戻らないの?』
赤司君はピタリと足を止めると、振り返る事も無く答えた。
「名前、何故僕達が入れ替わったか分かるか? それは必要だったからだ。
僕が変わったからチームが変わったんじゃない。チームが変わったから僕も変わった。
皆の突出した才能が目覚めて、以前の様にチームで力を合わせる事は無意味どころか有害になった。
だから僕も以前の様に戻る事は出来ない。皆がもう戻れないのと同じ様に」
『赤司君…』
「…そんなにアイツの事が気になるの? もしかして戻って欲しい?
だがヤツは戻っては来ない。この僕を受け入れろ。君がこのままここにいたければね」
彼はチラリと振り向き、軽く微笑んだ。
私は思わず彼を呼び止めていた。
『―あ、赤司君…は……バスケは好き?』
彼は微笑みを消し、冷徹な瞳を向けた。
「質問の意味が分からないな。それは勝つ為に必要な感情なのか?」
『…好きでも楽しくもないのに、勝つだけの為にバスケやっているの?』
「それが帝光中バスケ部の理念だ。楽しいバスケとやらがしたいなら、ここ以外の別の所でやればいい。
勝利が全て、勝てば全てが肯定され、負ければ全てが否定される。
僕が負ける事なんて有り得ない。全てに勝つ為だ…それだけの事だ」
『まだ私達は中学生なのに…! そんな考え方、辛くないの!?』
「別に僕は辛くなどはない。この理念を受け入れないのは君の自由だ。だが辛くて受け入れないなら部を辞めてもらうしかない」
『赤司君…っ!』
「で? …君は辞めるのか、続けるのか?」
赤司君は私を鋭く詰問した。
そのままはぐらかす事も、答えを後に延ばす事も許さない眼光だった。
私は…このまま辞める訳にはいかない。何があったとしても。
全てを見定める、と決めたのだから。
私は唇をぐっと噛み、掠れた声を絞り出した。
『……っ、つ…続けます』
「ああ。なら僕に従う事だ」
彼は冷たい瞳で私を一瞥し、そのまま立ち去った。
私は呆然と座り込んだまま、ドアの閉める音を聞いていた。
…ブウ。
私が再び立ち上がろうと身体を動かすと、さっきと同じ異音が聞こえた。
『音って、もしかしてこれ…?』
音のした場所に手を入れて、それを引っ張り出す。
それは緑間君から貰った、小さな丸いクッションだった。
それを両手で挟んで押し潰したら、同じ音が聞こえた。
『…は、はは…どんなラッキーアイテムだよ…?』
当座は助かった、と言っていいのだろうか?
これで彼が私に冷めたり…したら助かるんだけど。
部の事だけでも頭痛いのに…
つかこの事母が知ったりしたら大変な事になるな…
私は一人、頭を抱えた。
※※※
「名前、様子が変だな。…どうかしたのか?」
緑間君と一緒の帰り道。
私は黙りこくってしまい、緑間君に心配されてしまった。
『…真太郎が以前言った様に、赤司君、完全に変わっていたみたい。
私が、バスケが好き?って聞いたら、勝つ為に必要ない感情だって。
今の部のやり方を受け入れないなら、部を辞めるかどうするかと…赤司君に聞かれて』
「……名前は…どうするつもりだ?」
『続ける、って…言った。こんな理念、どこか歪んでいるって思うんだけど…今辞める訳にはいかないから…』
私が間違ってしまったのか?
このままじゃ、黒子君の絶望の一端を担ってしまうかもしれない。最悪だ。
緑間君は震える私の手を優しく握った。
彼の温かな手の感触に、私は泣きたくなった。
『…真太郎、私っ…』
「……名前がイヤなら、無理に続ける事はないのだよ」
『でも真太郎は続けるのでしょう?』
「当然なのだよ。帝光の理念は勝つ事。これは以前から変わってはいない。
部の方針が変わったが、俺はその方針に従うまでだ。だがこれは俺の話だ。
名前はイヤなら無理する事はない」
緑間君が続けるから、私も続けるとか、主体性が無いも甚だしい。
私は自分の意思で決めたんだ。
この程度の事は予測していた筈だ。泣き言を言う訳にはいかない。
…でも全てを見届けると決める事すら、こんなに辛いなんて。
私は彼を見上げて、微笑んだ。
『ううん、いいの。私、決めたから。
今の部のやり方を正しいとは思わないけど、それで部を辞めても何にもならないから』
今の状況が辛くても、私が無力でも、未来には絶望が待っているとしても、私の横には緑間君がいてくれる。
それだけが、今の私の心の支えだった。
緑間君は気遣わし気な視線を向けた。
「そうか。お前が決めたならそうするといい。
だが何かあったら俺に話せ。…聞いてやらん事もないのだよ」
『…ありがとう』
私は真太郎の手をそっと握り返した。
※※※
帰宅したら、私に届け物が来ていた。
「名前、ハワイから荷物が届いているわよ。お父さんからじゃないみたいだけど? 何か買ったの?」
大きな箱を開けてみたら、中に入っていたのはアイスフラワーだった。
箱の中に美しく整えられた、微かに見覚えのある花束に、私は息を飲んだ。
これを貰って赤司君に取り上げられた時が、もう随分と過去になってしまった様に思えた。
あれから、まだ二か月位しか経ってないのに、私達はずっと遠くに来てしまった。
そして一緒に添えられたカードには、赤司君の流麗な文字が記されていた。
"名前 いつもありがとう。君の一年が、この花の様に素敵になる事を心から願うよ"
『…う…っ、赤司君…っ…!』
花束は香りと生気と引き換えに、損わない美しさを留めていた。
これをくれた彼に、もう会う事も直接お礼を言う事も出来ないのか。
私は花束の箱を抱き締め、涙を零した。