煌めく音色
私は放課後、時々音楽室のピアノを借りて、気紛れに演奏している。
勿論、音楽室を使う吹奏楽部とか軽音部の活動が無い時だけだけど。
家にもピアノはあるけど、音楽室は響きも良いし、グランドピアノを触れるのでワクワクするのだ。
先ずは簡単な曲から指を慣らす為に弾いていく。
暗譜している曲は数曲ある。
暗譜は、ただ楽譜見て弾いただけでは覚えられない。
譜面を伏せ、覚えてない所を重点的に頭と手に叩き込む。
私の弾く曲は、クラシックの小曲が多い。
特にバッハとかのバロック音楽は弾いてて面白い。
和声技法とか対位法とか、構造が複雑なパズルを組み立てているみたいだ。
ショパンとかも、「別れのエチュード」とか、「雨だれのプレリュード」とか「幻想即興曲」とかも好きだけど。
最近…色々とあって、私は一応通常通り振る舞ってはいるつもりだけど、それでも、時々は感情の波に激しく揺さぶられる事もある。
何も考えずにピアノ弾く行為は、そんな自分の状態を一旦リセットするのに丁度いい。
今弾いているのは、メンデルスゾーンの「ヴェニスの舟歌」
所謂初心者向けの、かなり難易度の低い曲。
スピードもゆっくりした曲だ。
左手の伴奏は、ゆったりとしたカナルグランデ(大運河)の波を連想させ、右手の旋律は、静かに進むゴンドラを思い起こさせる。
弾いている内に、私は曲の世界に入り込む。
メンデルスゾーンは、絵画的な曲を得意とする作曲家だ。イメージも掴みやすい。
自我が消えていく。
自分を構成する意識が、世界に融けていく。
悲しみも怒りも喜びも…自分の感情の全てが消えていき、残るは研ぎ澄まされた感覚のみ。
今の自分が何者でもなくなって、世界に完全に同調する。
私は、光であり波であり水であり風であり…世界を構成する一分子となり……そして、その世界全てになる。
そして、波に反射する光のイメージそのままに、指を動かしトリルを弾く。
今までに無い位、上手く弾けたのではないだろうか?
…といっても、こんな誰も聞いてない場所では、自己満足でしかないけど。
つか、緊張して間違えるから、人前で弾くのは嫌いなんだよね…
※※※
-緑間side-
放課後、音楽室の近くを通りがかった。
時には、誰かが弾いているピアノ曲が聞こえてくる。
俺は足を止めた。
元々クラシック曲は好きだ。
この曲はメンデルスゾーンの「ヴェニスの舟歌」か。
随分、こなれた弾き方をする…
何となく、心惹かれる演奏…なのだよ。
誰が弾いているんだろう?
聴いていると、意識が持って行かれそうになる。
俺は、教室の外の柱に身体をもたせかけた。
柔らかい旋律…ゆったりと心が洗われる様な。
曲がトリルの部分に差し掛かると、俺は衝撃のあまりに息が止まりそうになった。
そのまま音が、頭の中でキラキラとした光になって溢れた。
…!!音が光そのものになる表現を聴いたのは、初めてなのだよ…!
今まで、プロが弾いた演奏は何度も聴いてる。
この曲も、いわゆる名曲だから。
しかし、ここまで世界を具現化してのけた演奏は聴いた事は無かった。
誰が弾いているのか、知りたい…!
俺は、好奇心を抑える事が出来なくなった。
音を立てずに、扉を少しだけ開けて、中を覗き込む。
名前……!?
俺は驚いた。名前がピアノを弾けるとは思ってなかった。
クラシックの話はした事はあるから、好きなのは知っていた。
…あの、雨の試合の日から、俺は自分のした事の意味を考えてしまう。
どうして俺は…あいつを引き留めたのか?
あの時…電話がかかって来なければ、俺は彼女に何をするつもりだったのか?
考える程に恥ずかしくて、彼女にあの時の俺の事をどう思ったのか?
聞きたいとは思っても、普段と変わりない飄々とした彼女の態度から、中々切り出すことが出来ないでいた。
…もしかして…何とも思われていなかったのだろうか?
そんな考えに捉われてしまうと、正直凹むのだよ。
しかし今は…
彼女の奏でる音色が、俺を含めた空間を優しく包み込む。
俺は、温かな気持ちを抱えて、暫く彼女の一人リサイタルに耳を傾けた。