緋色に染まる
私は今、文化祭展示用に、二つの油絵を描いている。
一つは静物画。
そして、もう一つは…真太郎を描いた人物画。
真太郎の絵は、私が何度もこっそりデッサンを取っていた。
彼の最も輝く時、3Pを打つ瞬間を切り取る。
デッサンと写真のイメージを借りて、脳裏にある真太郎を出来るだけ忠実にキャンバス地に描き出す。
これは、もうすぐ仕上がるが、恥ずかしいので私は誰にも見せない様にしている。
念の為に、カモフラージュで別の絵の紙で覆っている。
静物画は、合間に気楽に描いていた。
今は、美術部が終わって、一人残って真太郎の絵の確認をしていた。
そこへ美術室のドアが開かれる。
「名前、まだ終わらないのか?」
私は慌てて真太郎の絵に、カモフラージュの紙をかけ、更に上から布を被せた。
『…!!もうすぐ終わるから待ってて』
そして、静物画にペンティングオイルで混ぜた絵具を乗せる。
真太郎が横に来た。
『ここだけ塗ってしまおうと思って』
「ほう。まだ粗い…下塗りだな」
『うん。…静物画もねー…早く描かないと、林檎の色も変わるし、花は萎れるしで…時間で光源も変わっちゃうし』
「成程な…大変なのだな」
真太郎は、そう言いながら、私の腕を掴んで立たせ、代りに自分が椅子に座った。
『…?真太郎がそこに座ったら、私が描けないじゃん!』
私が抗議すると、真太郎は自分の膝を広げて叩いた。
「座れるのだよ」
『はぁ!!???』
「名前が座れる場所を作ってやったのだから、ここに座ると良いのだよ」
『ちょっと待てっ!!!?』
「早くしないと、最終下校時刻になってしまうのだよ」
『〜〜〜〜〜っ!!!!!』
もう!!!何考えているのよー?
こう言い出した真太郎は聞かない。
私は仕方なく、真太郎の前、膝の間に座る。
真太郎は、私の腰に腕を絡めた。
一つの椅子は狭くて、私が後ろから真太郎に抱えられてる状態になる。
顔が熱くなってくるのが自分でも分かる。
『恥ずかしいよ…!』
「ここには俺達だけだ。誰も見てはいないのだよ」
『見られてなくても恥ずかしいんだったら!これじゃ、集中なんて出来ないよ!!』
「集中出来ないのは、人事を尽くし切ってないからなのだよ。
こうすれば、名前と同じ視点で、出来ていく絵が見られるのだよ。早く描かないと時間切れだぞ?」
『もう…!分かったよ、やったるわ!』
分かったから、耳元でその無駄に良い声で話すのは止めて欲しい。こっちの心臓が保たない。
『…………』
「…………」
美術室の中に、私の筆を滑らす音だけが響く。
時折、ウォッシングオイルをかき混ぜる音が静寂を乱す。
私は、後ろの真太郎の体温と息遣いを常に感じつつ、絵に集中する。
今、私はジャージにエプロン姿で、色気無い事この上ない。
何故なら、制服では油絵具で汚すから。
油絵具は乾くのに時間がかかる為、うっかりするとスカートの先に付着してしまう場合がある。
なのに、真太郎は制服姿だ。…何だか奇妙な感じ。
暫く描いていたら、不意に、ぐいっと後から強く抱き締められ、筆が止まる。
『……しん…っ!!』
「名前…」
耳元で囁かれた甘い声に、背筋を撫でられた様にゾクリとして身体が震える。
努めて動揺を出さない様に声を抑えた。
『…どうしたの?』
「お前が…絵に人事を尽くしているのは分かるが、少しは俺の方も意識してもらいたいのだよ。
……まるで…これでは、名前を絵に取られたみたいなのだよ」
真太郎は言いながら、私の首筋に軽く唇を付ける。
『真太郎…!?』
戸惑う私に構わず、彼は私の首に顔を埋める。
「少しはお前を補給させろ」
集中出来ないと言ったら、人事を尽くしてないと言われ、集中したら、こっちを意識しろと言われ…
どっちなんだよ?
尤も、真太郎に甘えられるのは嬉しいと思ってしまう私も大概だけど。
…一緒にいる時間が少し減って、寂しいのは私も同じだ。
どんどんと欲張りになってしまうな…私も。
かちゃり
私は油筆をパレットの上に置き、真太郎に身体を預けた。
窓から差し込む残照が、世界の全てを緋色に染め上げていた。
ふと、私の視線は真太郎を描いた絵の方に向いた。
あの絵を描いている時は、真太郎を思い浮かべているせいか、離れていても一人じゃない様な気がしていた。
だから、いつも一緒だね、と真太郎の熱に包まれながら、その絵に微笑んだ。
※※※
作業が一段落して、そろそろ最終下校時刻になる。
外は闇の帳が落ちていた。
私は道具を片付け、一人準備室で着替えた。
『お待たせー…』
隣接しているドアを開けると、そこは美術室。
真太郎は、隠した絵の布を慌てて下ろしていた。
…まさか、カモフラージュの下の絵まで気付かれた…?
私は顔が引き攣った。
「ま、待っていたのだよ」
『…見たの? それは、出来上がるまでは見せたくなかったのに…』
私は顔を顰めて彼を咎める。
それに真太郎が心外だと言わんばかりの表情を浮かべた。
「名前が…!名前が悪いのだよ…!!」
『何でよ?』
「俺が抱き締めていた時、この絵を見て一人で微笑んでいたろう!?」
…バレてたか。
私が思わず視線を泳がせると、真太郎は眼鏡越しに真直ぐ私を見た。
「名前の事なら、俺はすぐに分かるのだよ。…いつもお前を見ているのだからな」
『……!!!』
殺し文句を真顔で言ってのけた後、真太郎は躊躇いがちに続けた。
「……お前の絵は、評価している。が、この絵の芸術性は前衛的過ぎて、正直俺には分からん」
『…は?』
自分が描かれた絵が気に入らない、とかだろうか?…それとも。
…まさか、冗談で作ったカモフラージュのコラージュを本気に取ったのだろうか?
あれは…キャンバス地までリアルに再現出来て、我ながら傑作だったと思うんだけどなぁ。
あの「空 飛 ぶ 秋 刀 魚 の 開 き」の絵は。
そして、当日の緑間家の夕食のメニューが奇しくも「秋刀魚の開き」で、絵に妬いた真太郎が、それを思わず箸で突き刺してしまい、
他の家族に胡乱な目で見られてしまった顛末を予測するのは、神ならぬ身の私には到底不可能な事なのだった。