心を押し隠して
暫くしたら、足の捻挫は大分良くなって来た。
走ったりとか、無理に負荷をかけ過ぎなければ大丈夫だ。
私はパットを連れて、いつもの散歩を再開した。
外は晴れて、気持ち良い風が吹いている。
でも、私の気持ちは沈んだままだった。
『…大輝君…』
私はそっと頭の大半を占めている、そこにいない彼を想って呟いた。
彼には好き…な人がいる。
それは誰か、知りたいけど同時に知るのが怖い。
いつものコース通りに、大きな公園に入る。
しかし、その日はいつもと様子が異なっていた。
公園の雰囲気が騒めいている。
『……?』
何だろ…人がやけに多い様な…???
私はいつもの公園内のコースを少し変えて、いつもはあまり行かないエリアを歩いて行く。
そこから見える、芝生が広がっている一角に、人だかりがしていた。
私は、その人だかりに気を取られていて、リードを握る手が緩んでいるのに気が付かなかった。
パットが急に走り出す。
『あっ…!?』
リードの持ち手の輪は手から外れ、パットはそのまま走って行った。
私は、まだ走れる程に回復していないので、その後をよたよたと付いて行くしかなかった。
そして、私が最も恐れていた通りに、その人混みに向かって突進して行った。
『パット!!ストップ!!止まれっ!!!』
私は出せる限りの声を張り上げた。
万が一、怪我人でも出す事になったら、大事になる。
そこに集まっていた人達は、私の声に驚いた様で、こっちを振り向き、慌てて散り散りに逃げ出した。
パットはコードに引っかかり、撮影機材を倒し、その場は混乱に陥った。
『ああ……』私は惨状に呻いて額を押さえた。
弁償額、幾らになるんだろ…?
『す、すみません…!!』
私は足を出来るだけ急がせた。
その時、そこにいた一人の男性が私を見るなり、ホッとした様に笑顔を浮かべた。
「あっ!?やっと来たね、マイちゃん!!体調は良くなったんだね。良かった良かった!」
…マイちゃん?
……それって、もしかして私に向かって言ってるの…?
私は首を傾げた。
彼は、どう考えても私をガン見していた。…どうやら、私の事を"マイちゃん"と人違いをしているらしい。
『あの…っ』
「いやー、来てくれて助かったよ!さっき体調不良って連絡が来た時は、代替えはいないし、
黄瀬君の代りの日程調整がつかないしで、撮影は中止にするか、ピンでするかって話になっててね…!」
……は? 今、"きせ"君って言った?
私がきょとんとしていると、そこに苦笑気味の黄瀬君が出て来た。
「嶋田さん、その娘は違うっス」
「えっ?」
「だから、彼女は"堀北マイ"ちゃんじゃなくて、別人っスよ!」
「はあっ?」
※※※
その嶋田さんは溜息を吐いた。
「…ああ…その犬の飼い主な訳ね…」
彼は気の毒な位に落ち込んでいた。
幸いに撮影機材は壊れてはいなかったが、色々とまた設営をし直さなければならない。
野外撮影は、太陽に左右されるので、時間がかかるのはタブーらしい。
『あの…っ、この子がすみませんでした! 幾ら弁償すれば良いでしょうか? 私に出来る事があれば…!!』
私の言葉に、彼はピクリと眉を跳ね上げた。
そして黄瀬君を見て、思い付いた様に言う。
「そうだ…っ!君、よく顔を見せて!!」
『…えっ?…あの』
「3サイズは!?」
『…は?』
スリーサイズ…って。何この人、セクハラ発言!!??
私が混乱していると、彼は興奮した様にとんでもない事を言い出した。
「君が、代わりのモデルになるんだ!!それしかないっ!!!」
『え…っ?無理です!!』
「俺達を助けると思って!!」
『私、モデル出来る程の体型じゃありませんし』
「…これって…君の犬だよね?」
『はい』
「機材…責任取ってくれないかなぁ?」
「ちょ、嶋田さん!!」
「黄瀬君は黙ってて!」
私が困って黙ってしまうと、その嶋田さんは、たたみかけて来た。
「弁償…してくれる気があるんだよね?」
『それは…っ、はい』
「なら、君自身で払ってくれないかなぁ?…それでチャラにしてやるから」
「嶋田さん…その言い方は誤解を呼ぶっス…」
「勿論、報酬は出すよ!」
結局、私は渋々モデルをやる事になった。
「はい、顔を上げて動かないで…」
「肌綺麗ね。ファンデーションの乗りが良いわー」
今、私はメイクとスタイリストさんに弄られていた。
みるみるうちに、顔が華やかに塗り替えられていく。
黄瀬君が支度の済んだ私に近寄って来た。
「名前っち、折角コンタクトにするって話だったのに、また眼鏡に戻したっスか?」
『…ええ。コンタクト、何か合わなくって』
青峰君に怒られたから、とは何故だか言えなかった。
黄瀬君は、そんな私を見て、何か悟った様だった。
「…あー…まぁ、青峰っちがヤキモチ焼いて、いざこざでもあったって所っスかねー」
『……黄瀬さん?』
黄瀬君が小声で呟いた声が聞こえなくて、私は思わず聞き返したが、彼は曖昧に笑っただけで答えてはくれなかった。
※※※
「名前ちゃん、リラックスして笑って!」
「目線こっちねー! 身体はもっと黄瀬君に傾けて!」
私は慣れない撮影にガチガチに緊張しながら、黄瀬君と一緒に言われた通りのポーズを取る。
グラビアアイドルの代わりでも、露出がそう多くない服で助かった。
胸が余る所はパットを入れて補正している。
「もっと黄瀬君に寄り添って!表情が堅いよ!」
…そ、そんな事言われたって…!!
私は、男の子と絡むの苦手なのに…っ!
パニック起こしかけて内心で泣きそうな私に、黄瀬君は安心させる様に笑いかけて来る。
「名前っち、俺の事は青峰っちと思って、もっとこっちへ寄るっスよ!」
『…大輝君と…?』
「そうっス。何なら俺の事も涼太って呼んでくれても構わないっスよ?」
そ、そうか。…大輝君と思えば…
大輝君、大輝君……
私は懸命に青峰君の顔を思い浮かべる。
彼の逞しい腕、彼の体温、彼の低い声、彼の笑顔……
私は隣で密着した黄瀬君に、青峰君の記憶をオーバーラップさせる。
途端に心拍数が跳ね上がり、全身がかっと熱くなる。
「名前っち?」
『…む、無理っ!』余計に緊張してしまうよ!
私はぶんぶんと首を振り、涙で潤んだ視界を黄瀬君に向けた。
黄瀬君はそんな私を見て、慌てた。
「カメラマンさん、すみません! 少し休憩くださいっス!!」
※※※
私はひたすら恐縮して、頭を下げた。
『……すみません。私のせいでお手間を取らせてしまって…!』
「いいっスよ。こっちも無理言って聞いて貰ってんスから、お互い様っス」
私は黄瀬君と、撮影場の片隅に並べた椅子に座った。
ペットボトルの甘くない紅茶を薦めてくれる。彼はスポドリを飲んでいた。
『あの、今日は堀北マイさんと一緒に、撮影する事になっていたのですよね…?』
私は、さっきの騒動を思い出して尋ねた。
「そうっス。…青峰っちに知られたら、殺されそうっス。
せめて彼女のサイン付き生写真くらいは、貰ってあげようかと思ってたんスけど。
(名前っちと一緒に撮影になったら、それもそれで殺されそうっスね…)」
私は、彼女の名前を聞いて、最近思い出した事を話し出した。
『近くの書店でサイン会が行われるので、私、写真集買って大輝君にあげたんです』
「へえ。…青峰っち、サイン会に行くんスか?」
私は首を横に振った。
『いいえ。残念ながら、整理券配布は終わっちゃったみたいで…』
黄瀬君は私をじっと見つめながら、そうっスか…と相槌を打って聞いてくれた。
私は、少しずつ状況に慣れて来て、やっと落ち着いてきた。
そろそろ撮影再開出来るかと、黄瀬君と話して腰を上げようとした時、
ウォン!
「どわっ!?」
パットがいきなり走り寄って来て、横から黄瀬君の上に圧し掛かった。
「重っ!!」
『こら、パット!!黄瀬さんから離れなさい!!』
「バウッ!」
黄瀬君は、パットの重さに耐えかね、堪らず私の方へ身体を倒した。
そんな彼を私は必死に支える。
私達がパットとジタバタしていると、「へえ、その絡みも新鮮だね!」と声がして、シャッター音がした。
「ちょっとー!?今は休憩中っスよ!? それよりも、この犬退かしてくださいっス!!」
黄瀬君が私にしがみつきながら、カメラマンに抗議するが、全然取り合って貰えなかった。
「犬と戯れるキセリョもイイじゃない? 彼女の方も、緊張が取れて来たみたいだし?」
そのまま否応も無く、撮影に雪崩れ込んだ。
※※※
『…はぁ。やっと撮影が終わった……』
解放されたのは、もう午後を過ぎて夕方近くになってからだった。
今日は休日なのが幸いした。
それでも、足には負荷をかけない様にしていたから、悪化はしてない筈だ。
けど、私はぐったりと疲れ切っていた。
パットは、好物の骨付き鶏肉を貰ってご機嫌だ。
私は、ふと、家の前で佇んでいる人影を認めて足を止める。
「よぉ。…遅かったな」
青峰君だ。いつから待っていたんだろう?
彼は不機嫌に携帯をパチリと閉めて、ズボンのポケットに突っ込んだ。
「何度も電話しても出ねーから、何かあったのかと思ったぜ。
おめーの家族に聞いても、犬の散歩に行った以上の事は分かんねーし。かと言って、いつもいるコース探しても見付からねーし」
『えっ!?電話!??』わざわざ探してくれたの?
私は慌てて懐を探った。
撮影の時、邪魔にならない様に、携帯の着信音を消していた事を今更の様に思い出す。
案の定、着信履歴が何件か入っていた。
『ご、ゴメンね!?…マナーモードにしていて、電話来てた事に全然気が付かなかった』
「無事なのが確認出来りゃ、それでいい。…足は大丈夫か?」
…もしかして、心配してくれたのかな…?
彼のぶっきら棒な優しさに、私は心がじんわりと温かくなった。
『…うん、ありがとう。大輝君』
私はやはり大輝君が好き。
……例え、彼が他の人が好きでも。
切なく心がツキンと痛む。
『でも、何で電話くれたの?』
私の質問に、彼は眉間の皺を深くした。
「俺がおめーに電話しちゃ、いけねーのかよ?」
『ううん、そんなんじゃなくて。何か用があるのかな?と、思ったものだから』
「ああ…それか」
彼は頭をガシガシと掻いた。
「……最近、名前、おめー…俺の事、避けている様な気がしてよ。
俺は回りくどいのはご免だからな。言いたい事があるなら、さっさと言え!」
私は、彼の言葉にどきりとした。
言いたい事…あるけど、とても言えない。「大輝君の好きな人って、誰?」って。
真実を知るのが怖い。
『…避けて…ないよ』
消え入る様に言った、私の取り繕った答えに、青峰君は更に不機嫌になった。
「なら、俺の目を見てちゃんと言え。おめー…」
私は、彼に顎を掴まれて持ち上げられた。
彼は私の表情を見て絶句したみたいだ。
私は自覚していたから、彼の顔を見れなくて俯いていた。
その時の私は目が潤んでいた。
泣きそうになった顔を見られたくなかったから。
『…っ!ゴメン!!』
私は、茫然としている青峰君を突き飛ばし、自宅に駆け込んだ。