闇の中のアリス
-名前side-
『…うっ』
私は、壁に突き刺した鉄パイプで身体を支え、凹んだ箇所に足を入れて不安定な体勢を続けていた。
これで、少しは高い場所で水から逃れられるかと思っていたけど、雨はまだ無常に降り続いている。
『……また、水位が上がって来た…!』
さっきまでは腰位の高さだったのに、今では肩に相当する高さにまで上がって来ている。
水は、上に避難した私の足元を浸していた。
いつまでこの体勢が保つのだろうか。
まさか、こんな町中で溺れる寸前に追い込まれるとは予想も出来なかった。
以前、街中で突然穴が開いて、人や車が落ちたりするニュースを見た事はあったけど。
『……シンクホールってやつ…?』
呟き、ゾッとした。
『……大輝…君…』
また明日、いつもと同じ様に会えて言葉を交わせるものと、何の疑問も無く思っていた。
昨日と変わりなく、明日が続くものと無邪気に信じていた。
それが、突然断ち切られる事になるなんて。
私の体力が尽きるまでに救けが来なかったら、私はこのまま暗い中で冷たい水に飲み込まれてしまうのだろうか。
『…そんなの…っ嫌だ!!』
今、私に出来る事は、ここで耐えて救けが来るのを待つだけ。
それが出来なければ―死、あるのみ。
私…死ぬの?
青峰君に好きです、って気持ちも伝えないままに消えてしまうの?
もう…二度と青峰君に会えないの…?
もっと素直になれば良かった。
例えフラれてもいいから、気持ちを伝えれば良かった。
心を抉る後悔の念と共に、ぽろぽろと涙が溢れてきた。
『……大輝君…会いたい…っ!』
他は何も要らないから。お願いだから。
青峰君は今頃、サイン会でマイちゃんと会っている筈。来てくれる訳もない。
いくら叫んでも無駄だ。そんなのは分かっている。…それでも
『大輝君!!! 救けて…っ!!!!』
私は、最後の気力を振り絞って、声の限りに叫んだ。
※※※
-青峰side-
降りしきる雨の中、俺はパットの後を追って疾走していた。
傘は走るのに邪魔だから途中で投げ捨てた。
写真集は…いけねぇ、サインして貰うのに、マイちゃんに渡したまんまだったぜ。
カバンは防水性のある素材だ。だから、多少は濡れても問題はねえ。
パットは、時折止まっては俺が付いて来るのを確かめる様に、後ろを振り返っては走って行く。
俺は確信していた。
こいつは付いて来いと言ってやがるな…!
一体、名前の身に何があったと言うんだ?
緑間が今朝変な事言ってたけど…アイツ、妙な所で神がかってやがるからなー…
パットを追っかけて行くうちに、次第に寂れた倉庫街に入って行った。
夕方になり、徐々に辺りは薄暗くなって来ている。
「…何だ…? こんな所に何があるってんだ…?」
散歩コースからも外れた、こんな所に本当に名前がいるってーのか?
俺は不信感満載で、無人の工事現場に走って行くパットに文句を付ける。
「おい、おめー、ここに本当に名前がいんだろーな?
俺はマイちゃん打っ遣らかって来てやったんだぞ? もし何も無かったら、只じゃおかねーからな!!?」
工事現場の敷地内には、ぽっかりと大きな穴が開いていた。
そこの縁に寄ったパットが吠え立てている。
「…何だこりゃ? …誰か…いる…のか!!?」
俺は暗い穴の中を覗き込んだ。携帯の明かりで中を照らす。
そこには、途中に突き出た棒状の物に掴まりながら、ぐったりしていた名前がいた。
「名前っっ!!? おい、しっかりしろ!!!」
俺は、工事現場にあったロープを見付けて、近くの柱に片方を結び付け、もう片方は自分の腰に縛り付けた。
そして穴に入り、壁に足を掛けながら下に降りる。
※※※
-名前side-
暗い穴の中で、どれ位の時間が経ったろうか?
……そろそろ限界かもしれない。
水は、掴まっている私の足を這い上り、腰を超えて背中にまで達していた。
下に落ちれば、私の身長よりも水位が高い。手を離したら完全にアウトだ。
手足は痺れ、感覚が無くなってきていた。
支えのパイプに懸命にしがみ付いているものの、濡れた身体の体温は奪われ、意識は朦朧としていた。
………?
静寂の間に、時折車の走り去る音が聞こえているだけだったが、別の音が入り込んで来たのに、朧気ながら気付く。
…あれは…犬の……? それと……誰か…の…声…??
「……名前っ!!」
聞き間違う筈も無い、ずっと聞きたかった青峰君の声が耳朶を打った。
……とうとう私は、最期に空耳まで聞こえる様になってしまったのかな。
でもやっと、青峰君の声が聞こえた。最後のお願い、叶えてくれてありがとう…
私は願いを叶えてくれた誰かに感謝し、小さく笑みを零した。
暗闇の中、小さく照らされた明かりの中に、浅黒く鋭く整った彼の顔まで見えた。
幻でもいい。
私は残された力を振り絞って、精一杯腕を伸ばす。
何かが手首に絡み付き、水の中に落ちる私を、すんでの所でそこに留めた。
『…大輝君…好き…!』
微かに呟いた時、息を飲んだ様な呼吸を一拍おいて「…俺もだ」と聞こえ、力強く引き寄せられた。
そして唇に柔らかな感触がした瞬間、私の意識は闇に沈んだ。
※※※
-青峰side-
俺は名前を建築途中のビルの軒下に運び、救急車を呼んだ。
その時に大型犬もいるから、一時的に保護してくれる様に頼んでおく。
俺は、名前の服を下着を残したまま脱がした。
晒された白い肌に、つい視線が吸い寄せられてしまうが、今はそんな場合ではねーな、と敢えて意識から外す。
自分のバッグに入れてたタオルで名前の身体を拭き、着替え用のTシャツを被せた。
名前には大き過ぎるが、無いよりは遥かにマシだ。
ついでに俺も濡れた服を脱いで、身体を拭く。
着替えは一着しか持ってないので、俺は上半身裸だ。
俺は名前の額に手を当て、顔を顰めた。
「…すっかり冷え切ってやがる」
このままでは、こいつは風邪をひいてしまうかもしれねぇ。
俺は、名前を抱き寄せ、自分の身体に密着させた。
名前の冷えた肌が、少しずつ俺の体温と同化して行く。
「これで救急車が来るまでには、ちったぁ温まんだろ」
俺は名前の手を握った。
「……傷だらけじゃねーか。こんなんなるまで…」
間に合って良かった…こいつは確か…泳げないんだったな。
俺はゾッとしながら、地面に開いた穴をじっと見た。
もう…今は、マイちゃんの事は頭から消えていた。
(大輝君…好き…!)
名前の言葉を記憶で反芻すると、俺まで身体が熱くなってくる。
俺は煩く鳴り出す心臓を持て余し、名前の首筋に顔を埋めた。
パットは、俺の横に来て身体を摺り寄せる様にして寝そべっている。
俺はふと思い付いて、パットの首輪のタグに手を伸ばした。
タグには、やはり名前の家の連絡先が書いてある。
俺は名前を抱き締めたまま、その番号を携帯に入力した。
暫くしたら、救急車がサイレンの音を立ててやって来た。
隊員達が名前を運ぼうとしたのを謝絶して、俺が抱えたまま救急車に同乗する。
「…君は、この子のご家族か?」
隊員の質問に首を横に振って答えた。
「いえ、俺は……こいつの彼氏です」
名前は、今では俺のカノジョだ。
例え救急隊員でも、他の男に触らせたくねぇ。
※※※
-名前side-
……ここはどこだろう?
私は誰もいない暗い空間に一人佇んでいた。
ゴポリ、と音がして地面から水が湧き、あっという間に私はそれに飲み込まれた。
苦しい…!
私は手を差し伸ばす。
『大輝君…っ!! 救けて…!!』
苦しさの余り、涙が零れた。
突然、手が誰かに握られたかと思ったら、勢い良く引き上げられる。
手を引いてくれたのは青峰君。私は彼に縋り付いた。
『大輝君…っ!!』
「安心しろ。…俺はここにいる」
青峰君の温かい指が、やや乱暴に私の涙を拭った。
彼の大きな手が私の頭に乗せられ、わしわしと撫で回す。
それに酷く安心した私は、優しい闇に意識を委ねた。
※※※
目が覚めたら、白い天井が見えた。
「名前!?」
覗き込んでいる人の顔に焦点が当たり、徐々に視界が鮮明になっていく。
『お…母さん…?』
「良かった…! 名前、大丈夫? 痛い所は無い?」
『…うん、大丈夫。少し足挫いたけど』
「何であんな所にいたの!? 幸い、男の子が発見してくれたけど、遅れてたら取り返しのつかない事になっていたわよ!?」
私は母の言から、その男の子に助け出され、救急車を呼んでここに送られた事を知った。
私は跳ね起きた。
「ちょっと、いきなり起きて大丈夫なの!?」
『お母さん、その男の子って、どんな子!?』
「え…? 凄く背の高い…カッコいい色の黒い子だったわよ? お大事にって言ってたわ」
青峰君だ…!!
気絶する前に青峰君を見たと思っていたけど、もしかして…幻じゃなかったの?
救出された時の記憶は殆ど無い。
…後で、青峰君にちゃんとお礼、言わなくちゃ。……あれ? でも…
私は、ふと沸いた疑問に首を傾げた。
サイン会に行ってた筈じゃ…?
そして、私は何か重大な事を忘れている様な気がした。
でも、あの時の記憶は曖昧で混濁していたし…?
あの時…確か、青峰君の声が聞こえて…朧げに彼の顔が見えて…
そして私は、どうしても伝えたかった事が…って、あれ?
……伝えたかった事って…もしかして。
そこまで考えて、私は愕然とする。
私…青峰君に告った…?
その後ってOK貰ったっけ?
フラれた記憶も無いから、恐らくすぐに気絶したんだろう。
『うわぁ…!』何て事を…!!
私は、恥ずかしさのあまり、両手で顔を覆ってしまい、
その様子を見た母を不審がらせてしまった。
※※※
「名前ちゃん、大ちゃんから聞いたんだけど…大丈夫?」
『あっ、さつきちゃん!?』
次の日、桃井さんがお見舞いに来てくれた。
私が、ずっと気になっていたサイン会の事を聞くと、彼女は身を乗り出し、パットが乱入した顛末を話し出した。
『え…っ!? それじゃ、大輝君はサイン、貰ってなかったの…?』
私は悄然と俯いた。
『…どうしよう…? 私の為に…迷惑、かけちゃったね…謝らなきゃ』
「んー、大ちゃんは、謝って欲しくは無いと思うなぁ。むしろ…」
桃井さんが言いかけた所で、また別の人の声が被さる。
「桃井。お前も来ていたのか?」
「あー!? ミドリン!!」
「ミドリ…ッ!? ブプッwww!!」
一緒に来た高尾君は、可愛らしい呼び名がツボった様で盛大に吹き出し、緑間君に大目玉を食らっていた。
『…あの、緑間さん…』
何故か彼の虫の居所が悪いのを感じ、私は恐る恐る緑間君に声をかける。
緑間君はギッと私を睨んで追及した。
「…苗字…星座のラッキーアイテムはどこにやったのだよ…?」
彼の怒りを含んだ低い声に私は戸惑った。
『…え? …あ! ……すみません、家に…あります』
「家…!? 俺は、一日中ずっと身に着けていろ、と言った筈だが?」
『…すみません。私服に着替えて、そのまま出かけてしまいました…それについては凄く反省してます…』
緑間君は、眉間に刻まれた皺を深くしたまま溜息を吐き、私はびくりと肩を揺らした。
本当に心配をかけてしまった。
『……心配かけてごめんなさい。…折角貸してくれたのに…私…』
高尾君が落ち込んだ私を慰めてくれる。
「まぁまぁ…真ちゃんも、名前ちゃんが助かってホッとしてんだよなー?
だから、そんな怖い顔すんなって!!な!?」
桃井さんも加勢する。
「そーよ! ミドリンも素直じゃないんだからー!!」
「………」
緑間君の眉間の縦皺が更に深くなる。私がもう一度、謝罪の言葉を口にしようとした時。
「……もう一本だ」
『……は?』
「約束のお汁粉をもう一本増やして、計二本で許してやらない事もないのだよ」
きょとんとした私とは別に、同時に吹き出した二人で、更に病室は賑やかになった。