…さよなら
-黄瀬side-
俺は食堂の窓際の席で、一軍レギュラー達と昼食を摂っていた。
ふと窓の外に目をやった黒子っちは軽く眉を顰めた。
「…黄瀬君!」
その言葉に只ならぬ気配を感じた俺も、窓の外に目を向けた。
「……灰崎!?」
俺の呟きに反応した全員は一斉に外に視線を向けた。
「何だ、灰崎はまた女を連れているのか」
「…まあ、いつもの崎ちんだよね〜」
メンバーの一部はいつもの見慣れた光景だと関心を失い、食事を続けた。
が、黒子っちは慌てて立ち上がり、青峰っちは鋭く目を光らせた。
「おい、あれは…苗字じゃねーか?」
「苗字さんと灰崎君…あり得ない組み合わせですよね」
「綽名っち…!!」
俺は食事を途中で放り出して走り出した。
さっき見た綽名っちは灰崎に手を掴まれて歩いていた。
俺は怒りに目が眩みそうになる。
綽名っちは…お前が触れて良い相手じゃない…!
もし綽名っちに何かするなら、俺はお前を許さない!!
俺は靴を履き替えると、闇雲に駆け出した。
もう、その時には灰崎と綽名っちの姿を見失っていた。
どこだ!?
俺は辺りを見回す。
後ろから青峰っちと黒子っちが追いかけて来た。
「おい、黄瀬! 待てよ」
「青峰っちは平気なんスか!? 綽名っちが…!!」
「違ぇよ、お前灰崎が、どこに行ったのか分かんのか?」
「手分けして捜しましょう! このままでは苗字さんが危ないです」
俺達は三手に別れた。
捜しながら、俺の胸に後悔が押し寄せて来た。
俺が迂闊にも、綽名っちと一緒の所を灰崎に見られたから。
本来の彼女はアイツとは無縁だった。
もし彼女に何かあったら、俺のせいだ。
頼むから、無事でいてくれ…!!
俺の祈りを聞き届けてくれるなら、神でも悪魔でもいい…!!
俺は走りながら、必死に頭を働かす。
灰崎が彼女に何かをするつもりなら…
俺は校舎裏に向かった。
人目に付き難い所はどこだ?
俺は辺り一帯を見渡す。その時に一つの倉庫が目に入った。
「何しているんスか?」
綽名っちは手を縛り上げられ、灰崎に組伏せられていた。
彼女の胸は大きくはだけられスカートも捲り上げられて、白い胸と太腿が俺の目を焼いた。
俺の頭の中は、瞬時に怒りで染め上げられる。俺は灰崎を睨みつけた。
「その手を離せよ。祥吾クン」
「邪魔すんなよ。おめーよりも気持ち良くさせてやろーとしてんだからよ」
「離せって言ってんだろ!!?」
俺は渾身の一撃を繰り出したが、あっさりと避けられ、代わりに重いカウンターを食らってしまう。
「…がはっ…!!」
俺は備品の棚に倒れ込んだ。綽名っちの悲鳴が聞える。
俺は痛みで気を失いかけるが、その後の灰崎の台詞で意識を引き戻した。
「おめーは、そこで俺がコイツをヤるのを指咥えて見てりゃ良いんだよ!」
『イヤだ! 離して!! 黄瀬君…っ!!』
ダメだ…!! ここで俺が倒れたら、誰が綽名っちを守るんだ…?
綽名っちを守るのは…俺だ!!
くそ…っ、この身体動けよ!! 何でこんな時に限って思う様に動かねーんだよ!?
「リョータが見てるとこでイかしてやるよ」
『イヤッ!!』
俺は無意識に手近に手を伸ばして、硬い物に触れた。
精一杯の力を振り絞り、それを灰崎に投げつける。
「っ!? 痛てーな!!」
「綽名っちに…触るなっ!!!」
灰崎は彼女を弄る手を止めると、顔を歪めて笑った。
「フン、ならそっちを先にすっか」
彼女は悲鳴を上げて灰崎を制止しようとしていた。
こいつはそんなモンで止まるヤツなんかじゃないのに。
俺は痛みにぼんやりした頭で、灰崎が来るのを待ち受ける。
その時俺は、彼女がよろけながら身を起こすのに気が付き、微かに口の端から笑いを零した。
そうっス。今、この隙に逃げるっスよ綽名っち…!
俺は灰崎が足を振り上げるのを他人事みたいに見やった。
彼女の悲鳴が聞こえた。
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
俺の身体に何か温かくて柔らかいものがぶつかり、覆い被さる。
「綽名っち…!!?」
何で逃げないんスか!? 俺は綽名っちを助けに来たのに、これじゃ逆じゃんか…!!
彼女は震えながら、固く目を閉じた。
その時、青峰っちが駆け込んで来るのが見えた。
※※※
綽名っちに怪我は無かったが、念の為に俺と保健室まで一緒に行く事になった。
彼女は俺のブレザーを羽織っていて、合わせからチラリとボタンの取れたブラウスが覗く。その隙間から見える小さな痣が痛々しい。
「すまなかったっス…」
手当が終わって、俺がぽつりと零すと、彼女は驚いた様に顔を上げた。
『…何で黄瀬君が謝るの? 黄瀬君は助けてくれたんじゃない』
「アイツに…灰崎に目を付けられたのは、俺のせいっス。それに俺は助けてはいないっスよ。…助けたのは青峰っちっス」
そう、俺は……何も出来ずに…彼女を傷付けただけ。
助けたかった。守りたかった。…けど
俺には…その力が無いと思い知った。
灰崎にも…青峰っちにも勝てない。
俺が傍にいても、何も出来ない―
綽名っちは優しいから俺にも礼を言ってくれるけど、俺には礼を言われる資格なんかないっスよ。
寧ろ、そのまま彼女の傍にいるのが居たたまれない程っス。
「…綽名っち」
俺が彼女に呼びかけると、彼女は首を傾げて俺を見上げる。
そう― 元々彼女は青峰っちが好きなんだ。
だから、こんな…邪な気持ちを抱いてしまった俺が、彼女の傍に居てはいけない。
…本当は、恋の応援なんて出来る筈も無かったのだ。
誰だって、自分の方が可愛いに決まっている。
何だかんだでグズグズと諦めるのを延ばしていたけど、もう潮時なのかもしれない。
俺は彼女に無理矢理作った笑みを向けた。
その笑みは苦く頬を伝い流れ落ちる。
「もう…俺とは関わらない方が良いっス」
『…え!?』
「灰崎は…俺と仲が良いから、綽名っちに目を付けたんス。
それなのに、俺じゃ…ヤツから守れない。でも青峰っちなら…!」
『黄瀬…君?』
彼女は戸惑いながら、俺に手を伸ばして来た。
俺はさり気なく後ろに下がると、彼女の手が空を切った。
「青峰っちなら、綽名っちを守れる。…青峰っちに告って、幸せになるっスよ」
そうすれば、俺も諦めきれる。
「俺は…一回も青峰っちに勝った事はないんス。あの灰崎にすらも。…だからバスケにもっと専念しなくちゃならない。
綽名っちも青峰っちの事が本気なら、俺なんかに関わっていちゃダメっス」
俺は言いたい事を捲し立てると、保健室の扉を開けて彼女に背を向けた。
「…さよなら」
これ以上、彼女の顔を見る勇気が無かった。
俺は一方的に別離の言葉を吐くと、足早に彼女一人残して保健室を出た。
「黄瀬君」
俺はぎょっとして足を止める。そこには黒子っちがいた。
「…来てたんスか」
黒子っちは、いつぞやの様に真直ぐな視線で俺を射抜いた。
「苗字さんの事…本当に良いのですか…?」
俺は微かに苦笑いした。
「…良いも何も…綽名っちは青峰っちの事が好きなんスよ? このまま俺が傍に居る意味はないっスよね?
ましてや、今回みたいな事があっちゃ―…良いんスよ、これで」
俺は黒子っちから目を逸らした。
そう、もう幕引きだ。
俺はもう…彼女に関わるのは止める。それでいい。それで…良いんだ。
俺は何よりも納得してない自分に言い聞かせる為に、心の中で繰り返した。
※※※
-名前side-
「…さよなら」
一瞬、彼が何を言っているのか、私には分からなかった。
その言葉は、ここだけの一時的なものでは無いと感じて、私は呆然と立ち竦む。
黄瀬君の後に、魂の抜けた人形みたいに保険医から手当を受けながら、私は今までの記憶を反芻していた。
黄瀬君と一緒で、楽しかった…
一方的に別離を告げられて、身を切られる様に心が痛い。
『…何で…?』
泣くまいと食いしばった歯の間から、零れる独り言。
私の何がいけなかったのか。私は何を間違えたんだろう…?
何で私は、こんなに辛くて苦しいの…?
私は…青峰君が好き…だった筈なのに。
でも黄瀬君が言っている事は正しい。
私がふらふらしているから、きっと黄瀬君は呆れたんだろう。
私がしっかりして、もっと青峰君に近付く努力をしていれば。
今まで私は、どれだけ黄瀬君頼みにしていたんだろう?
…ごめんなさい、黄瀬君。
手当が終わり大事を取って、保健室のベッドで一人で寝ていた。
今までの様々な記憶が走馬灯の様に蘇る。
もう…あのキラキラした日々は戻っては来ない。
黄瀬君は…前を向いて歩き出したんだ。
私も…頑張らなきゃ…でも、少しだけ…今だけ…だから。
私は声を殺し、枕に顔を埋めて嗚咽した。
※※※
私は、朝練の前に軽く走り込みをしていた。
「もう、具合は大丈夫なんスか?」
かけられた声にどきりと心臓が跳ねて振り向いた。
黄瀬君がグラウンドの入口に背中を寄りかからせていた。
『黄瀬君は怪我は!?』
「俺は全治一週間程。暫く安静にしてれば大丈夫っス」
私は黄瀬君に駆け寄った。
きっと、昨日のは私の聞き間違いだったんだ。そう…別離の言葉は一時的なもので。
彼は小さな小箱を取り出し、開けた。
苺キャンディーみたいな赤い色の、少しだけ縞が入った小さなペンダントが入っていた。
『わー! 可愛い…!!』
「緑間っちに聞いて…綽名っちの恋愛運が上がる様に。…まぁ気休めっスけどね」
『…これ、もしかして、私に?』
「そう。インカローズのペンダントっス。後ろを向いて」
私が後ろを向くと、黄瀬君はペンダントを付けてくれた。
彼の指が私の首筋に触れる度にドキドキする。
『これ…綺麗だからジャージには似合わないね』
「勝負時には、可愛い服で付けると良いっスよ。人事を尽くせると良いっスね」
『…ありがとう、黄瀬君。大切にするね!』
彼は一歩、私から距離を取り、少しだけ哀しそうに微笑んだ。
「最後に綽名っちに渡せて良かったっス。…これで思い残す事はもうないっス」
『……え?』
思わず乾いた声が出た。
今、最後って言った…?
『黄瀬君…っ!!』
私は去り往く彼の後ろ姿に向かって、ありったけの声を出して叫んだ。
彼は振り向く代わりに、片手を軽く上げて足早に歩み去った。
私に残されたのは、胸を彩る苺色のペンダントだけ。
ヒヤリとした固い感触は、昨日の悲しみを思い出させた。
私は、そのペンダントを掌に包み込んだ。
『…黄瀬、君…っ』
私は、いつも鈍くてトロくて…タイミングを掴めなくて失敗ばかりする。
その中でも、今回のはとびきりだった。
だって…今更ながらに、私は黄瀬君が好きなのに気付いてしまったのだから。
無くしてからやっと気付くなんて、最悪だ。
私は、そのまま頽れた。
2016.2.7