最後のチャンス
あれから、私は何度も最後に緑間君と指した手を一人で再現している。
何度も何度も。
「…後手4二銀…先手3六歩…」
パチリ、パチリ。
…そしてこの後、閃いて。
それからの心躍る一戦。
あの時は、とても楽しかった。先の事なんて何も考えず、ただ純粋に彼と指す事だけを楽しんでいた。
それから……私の手はふと止まる。
そう、稲妻の様に閃きながら、手控えてしまったここの手…
もし、私がここを迷いなく指していたら、この先はどう展開していったのか?
私は緑間君になったつもりで先を続ける。
でも本当なら、どうなっていたかは分からない。
この後にも、無数の可能性があるのだから…それを私は潰してしまったのだけれど。
もう二度と、この形にはならないだろう。
今更過去を愁いても仕方がない。
これから、私は緑間君と最後の一戦をする。
勝っても負けても、これが最後なら…せめて悔いのない勝負にしたい。
私は、もう今は見慣れてしまったバスケ部の部室棟に入って行った。
※※※
「苗字先輩、覚悟は出来たか?」
『…緑間君』
彼の態度は、まるで知り合う前に戻ったみたいに、よそよそしかった。
私は、胸に一抹の痛みを感じたが、それも自業自得だと自分に言い聞かせた。…そうでもしないと、泣いてしまいそうだったから。
彼の信頼を裏切ったのは私だ。…どんなに悔いても、やり直す事なんて出来ない。
なら、せめてこれ以上の醜態を晒さない事だけが、私の矜持だった。
私の気持ちは不思議な程凪いでいた。
これ以上、求めるものがなくなり、純粋に勝負にのみ意識が集中していたからかもしれない。
「『お願いします』」
私達は礼をし、将棋を指し始めた。
先手は私。『2六歩』
後手の緑間君「8四歩」……
意識は不思議な程研ぎ澄まされ、肌がピリピリと焼け付く。全ての感覚が開いていくみたいだ。
これが最後の試合だと、これに私の全てをぶつけるつもりでいるから、私はこれ以上に無い程集中していた。
もう結果はどうあれ、後悔だけはしたくない。
『8二銀』
「7六金」
ふと、私は最後の試合で意識を研ぎ澄ましているのは、私だけではない事に気が付いた。
緑間君からも、ビリビリとした闘気が発せられていた。
…彼は、バスケの試合中も、こんな感じなんだろうか?
私は彼の気に飲まれまいと、腹の底にぐっと力を入れた。
緑間君は微かに笑った。
「…相手にとって、不足無し。俺を失望させるなよ?」
私は軽く頷いた。『……出来る限り、やってみる…!』
緑間君は手加減なしで攻め込んで来る。
私も、今までの経験と頭をフル回転させながら、先の先まで読む。
暫し長考した後、駒を進める。
パチリ。
緑間君も長考した後、駒を指した。
パチリ。
次第に盤上は、混戦の様相を為してきた。
『…くっ!』
受け手に回りながらも、突破口を常に探りながら粘る。
このまま負ける訳にはいかない!
その時、閃いた。(ここだっ!!)
バチッ!
私の指した駒を見て、緑間君の手が一瞬止まった。
彼も容赦のない一手を繰り出して来る。
私も次々と受けては切り返した。
……そして。
緑間君は目を瞠り「これは…!?」と絶句していた。
私は無我夢中で指していて、軽く息が乱れていた。
いつの間にか…終局まで来ていた。
「…12手先…恐らく俺の詰み、なのだよ。…参りました」
『……嘘…?えっ…投了……?』
私は呆然と、頭を下げた緑間君を見つめていた。
「『ありがとうございました!』」
緑間君は、全て出し切った、穏やかな表情で私を見る。
「苗字先輩…これで赤司に挑戦出来るな」
『……ありがとう。これも、緑間君のお陰だよ』
「ここまで成長したのは、苗字先輩の努力の賜物なのだよ。…俺はそれに少しだけ手を貸しただけだ」
……終わった。
これで緑間君とは…もう会う口実は無いかな…
そう思うと、心が痛んだ。
私、上手く笑えていると良いんだけど。
まだ全てが終わった訳ではない。
赤司君と勝負する、と言う大事がある。
私は、まだ、泣く訳にはいかない。
『…じゃあ…』
さよなら、と言いかけて去ろうとした私の手首が掴まれる。
「…名前!」
え?
私は、きょとんと緑間君を見つめた。
「…あ。いや……」
緑間君の顔はさっと朱に染まり、躊躇いがちに私の手を離す。
「…賭けは苗字先輩の勝ちだから、俺が一つ、先輩の願い事を聞かねばならないのだよ」
勝てた時の事なんて、全然考えていなかったものだから、いきなり願い事、と言われても思いつかない。
私は首を傾げていたが、一つ考え付いた。
『…なら、赤司君との対戦を終えたら、また戻って来る。その時まで待ってて?』
緑間君の瞳は儚げに揺れ、瞬きをした後、優し気な光を湛えて私を見た。
「ああ。…人事を尽くして来い」
そして、緑間君は私に狸の縫いぐるみをくれた。
『ありがと…緑の狸…?可愛いけど。何で?』
「…おは朝での…明日の先輩の星座のラッキーアイテムなのだよ。赤司から勝利を掴みとって来い!」
…何で私の星座、知ってんの?…この人…?? てか緑の狸って。…大玉よりは断然良いけど。
私は、緑の狸を抱き締めた。
ふわふわの感触が私を落ち着かせる。何だか、力が湧いて来る様な気がした。
※※※
『…参りました』
赤司君に挑戦して対局した結果、結局私はあと一歩で負けた。
全力を尽くしたけど、足りなかった。
(…緑間君、ごめん!!)
私は敵わないと分かってはいたが、口惜しくて唇を噛み締めた。
「君は…文化祭でやった時とは段違いに強くなったな。…久しぶりに手応えのある勝負だった」
『…赤司君?』
彼は私の持っていた狸の縫いぐるみを見て、フッと口元で微笑む。
「…成程、真太郎か」
『えっ?』
「以前、将棋部の女子が、真太郎の所にちょくちょく行ってると、涼太達が噂していた。
さっき君と指していて、何度も真太郎と指している錯覚に陥ったものだ…師事されて腕を上げたか」
『…はい。緑間君には、お世話になりました』
でも、結局はリベンジ成らず。…自分の力不足とは言え、緑間君には申し訳ない。
『ありがとう…ございました』
私は一礼して、部屋を出ようと歩き出した。
「苗字さん」
『はい?』
赤司君の声が私の足を引き留めた。
「…また、気が向いたら来てくれても構わない。時間の都合が付く時なら、いつでも勝負を受けて立つよ、苗字さん」
私は投げかけられた言葉に驚いた。
『えっ…!?』また、挑戦してもいいの…?
彼の笑いを含んだその後の言葉は、私を軽く狼狽えさせた。
「真太郎の所に行くのだろう?」
彼は何もかもお見通しみたいだ。…とても年下とは思えない。
私は再び一礼して、部屋を後にした。
※※※
私は、緑間君を屋上に呼び出し、赤司君との勝負の結果を伝えた。
緑間君は暫し沈黙し、そうか、とだけ呟いた。
『…緑間君、ごめんね』
私の謝罪に、緑間君は驚いた様に目を見開いた。
「何故、苗字先輩が謝るのだよ?」
『だって、あんなに教えてもらったのに、私は赤司君に歯が立たなかった…』
私は気が付いたら、ぽろぽろと涙を零していた。
『…っ、ごめんね…っ』
緑間君は私の涙を指先で優しく拭った。
「名前先輩は、人事を尽くした。それは誰よりも俺は知ってるのだよ。
その上で敗れたなら、誰に恥入る事では無い」
私は涙に濡れた目を上げた。
『…ありがとう。緑間君』
「……真太郎、と」
『え?』
「俺の事は真太郎と呼んで欲しいのだよ」
私は躊躇いがちに初めて彼の名を呼ぶ。…何だかちょっと擽ったい。
『……真太郎、君』
「何だ?」
『賭けの事だけど…これから、私の言う事を暫く黙って聞いていて欲しいの』
「それだけで良いのか?……承知した」
私は深呼吸し、緑間君を見上げた。
『…今まで、本当にありがとう。私が少しでも努力する強さを得られたのは、真太郎君のお陰です。
一緒に将棋を指している時は、とても楽しかった。……私は、真太郎君が好きです』
緑間君は、私の告白に息を飲んだ。
私は、そんな彼を見て微笑んだ。
卒業するまでに、気持ちを伝えられて良かった。
例え、それが叶わぬ想いでも。
『…さようなら』
私は身体をそっと離した。
「待て!!名前っ…!!」
彼は、私の腕を掴んで抱き寄せた。
『!!?』
そして、私を腕の中に閉じ込めたまま屈み、私の耳に口を寄せた。
「告白して、言いっ放しにするものではないのだよ。
…俺も、苗字先輩、いや……名前さんが好きだ!」
『え…っ!?』
私は予期して無かった突然の告白返しに、固まってしまった。
一気に心臓が早鐘を打つ。
「…愛している。名前……」
『……っ!!!』
嬉しさのあまり、私の目から新たな涙が溢れた。
緑間君は私の頬に手をかけ、頬を伝う涙に唇を寄せた。
私は至近距離の彼を見上げた。
緑間君は切な気に眉を顰め、綺麗な翡翠色の瞳は私を真直ぐに映していた。
彼は、私の両手に指を絡ませ、フェンスに軽く押し当てて、秀麗な顔を近付ける。
私は甘い予感に肩を震わせ、目を伏せた。
『…私…も。愛してま』
最後の言葉は、彼の唇に飲み込まれ、中に消えた。
私は蕩ける様な幸せを感じて、そっと目を閉じた。
夕闇の帳が、ゆっくりと私達の辺りを覆って行った。
※※※
エピローグ
卒業式の日、私は探していた人を見付けて駆け寄った。
『真太郎君!』
「名前さん、卒業おめでとうございます。
名前さんは、秀徳高校に行かれるのですね?」
『うん。…在学中に、研修会に入って奨励会受けて、プロ棋士目指すんだ』
私の決心を聞いた緑間君は、柔らかく口元を綻ばせた。
「人事を尽くした名前さんなら、きっとプロ棋士になれるのだよ」
『…私が強くなれたのは、真太郎君のおかげだよ。ありがとう』
「俺はいつも応援してるのだよ」
緑間君の激励に、私は笑顔で返した。
でも、新たな門出だけど、同時に私は切なくなる。
『卒業したら、会える機会が少なくなるね…寂しくなるなぁ。
真太郎君、カッコよくてモテるから少し心配…』
私の呟きを耳にした緑間君は、眉を跳ね上げた。
「名前さんこそ、高校で他の男にちょっかい出されると思うと、俺も居ても立っても居られないのだよ」
彼の懸念に、私は片目を瞑り、指を軽く振る。
『大丈夫!!真太郎君以上に素敵な男性なんて、高校行ってもきっといないから!』
私の言葉を聞いた緑間君は、そっぽを向き、耳を赤くしながらも、眼鏡のブリッジを上げて口の端で微笑んだ。
そして彼は、穏やかな瞳を私に向ける。
「名前さんの門出は俺が送るのだよ」
彼の差し出した手を取って、私達はゆっくりと歩き出した。
FIN
→後書き