夕焼けと夕立のあいだ
陽が傾く。世界一面が夕陽に照らされ、その一方で影が色を深めぐんと伸びる。空の高くではところどころに浮いた雲が橙から紫まで複雑に交じる色彩を呈している。それをぐるりと見回していると、沈みゆく夕陽とは真反対の方向から厚く暗い雲が近付いて来ていることに気が付く。夜には雨でも降るのかもしれない。今日は傘を持ってきていないし、早めに帰るが吉だろう。用具の片付けはあらかた終わったし、あとは気になる物品の手入れをしたら帰宅かな、と考えていた時、背後から声を掛けられる。
「苗字ー」
「はーい?」
「ちょっと手貸してくれー、こっち一人足んねぇわー」
「はーい」
御幸くんだった。
彼のそばに駆け寄り、移動式ネットの一方を掴む。彼が主にネットを押し、わたしは軽く引きつつ方向付けをするというポジションで運んでいく。ネットは小さいものから大きいものまで各種取り揃えられているけれど、本日残ったこちらの一品、一番大きなサイズであり一人で運ぶには些か心許ない。
「悪りぃな」
「ううん」
「足挟むなよ」
「うん」
なんて会話をしながらネットを定位置に置く。「わたし用具室寄ってヘルメット磨いていくね」と言うと、彼は「あ、俺もプロテクター拭いてから戻るわ」と足先を同じ方向に向けた。
それを慌てて制する。
「だめだめ! それはわたしがやる。御幸くんこれから自主練するんでしょ。大会前なんだから、いや普段からだけど、マネージャーでもできることはどんどん頼ってくれると⋯⋯嬉しいな」
「⋯⋯いーのか?」
「もちろん。そのためにいるんだもん」
「じゃーお言葉に甘えて。サンキューな」
と、一度は揃った互いの爪先の向きを正反対に向けかけた、その時だった。
ふっ、とどこか頭上が翳った気がして。二人で同時に空を仰ぐ。つい先程までは確かに晴れ間が見えていた。否、晴れ間というか、晴れた空に雲が浮かんでいたと言う方が正しい。その晴れ空の東側に暗雲がひっそりと立ち込めていただけだ。
しかし上空では非常に速い風が吹いていたようで、予想を遥かに上回るスピードで暗雲が頭上を覆う。隣で御幸くんがぽつり、「⋯⋯降るぞ」と零した。その刹那。
ドッシャアアァァ! とか。
ダッバアァーーー! とか。
効果音はともかく、文字通りバケツをひっくり返したような土砂降りに襲われる。夕立というにはあまりにも可愛げがない。まだ西の方には夕焼け空が見えているというのに、瞬く間にずぶ濡れではないか。
この世に生を受けて十六年。雨に打たれこれ程までに濡れたことはない。雨足が強すぎて、打ち付けられる肌が痛い。髪もティーシャツもジャージも何もかもがべったりと重たく張り付く。睫毛を水滴が滑り、ぼたぼたと落ちていく。
あまりにも突然の出来事に、悲鳴も忘れてただ呆然と立ち尽くす。
「お⋯⋯おい苗字、大丈夫か?」
「み、御幸くん、雨、すごいね⋯⋯」
「うん、凄ぇけど、そんな暢気に⋯⋯」
「何かもうすごすぎて⋯⋯ふ、ふふっ、だってこんなに降る?」
こんなの笑うしかない。
一度笑い出してしまうと止まらなくなってしまい、ずぶ濡れのままけたけたと笑う阿呆の子に成り果てていた。
彼も可笑しくなったのか、口元に楽しそうな笑みを浮かべながら、わたしの手首をきゅっと掴んだ。そのまま手を引かれる。
大きくて硬い。男の子の手だった。
「こんだけ濡れちまったらもう手遅れかもしんねぇけど、まぁとにかく走るぞ。夏だからって油断してっと風邪ひくからな」
「わ、待って⋯⋯きゃ、はっ、速すぎ! 転っ、転ぶ〜〜!」
自分では決して発揮できない速力に引かれ、半分くらい宙に浮きながら彼のあとを追う。「タオルは? あんのか?」と前方から声がして、必死に「なっ、ないです!」と返す。彼は「分かった。帰りの服は制服があるからいいとして、とにかく拭かねぇと」と更に速度を上げた。
息も絶え絶えに──もちろん彼は涼しい顔をしているけれど──辿り着いたのは、寮の彼の部屋だった。有無を言わさず入り口の段差を跨がされ、室内に入ったところでようやく手が離れる。
頭のてっぺんから靴の先まで、全身がずぶ濡れだ。多量の水滴が滴り落ちる。水滴が跳ねてこれ以上部屋を汚さないために、かつ上がってしまった息を整えるために、玄関代わりのちいさなスペースにしゃがみ込む。
一方で彼は水に浸った靴を脱ぎ、床が濡れるのも厭わずタオルが仕舞ってあるのであろう場所へ真っ直ぐに向かっていた。
濡れた前髪が邪魔で、除けて額を顕にする。ものすごく走ったせいで顔が火照っている。水分を吸った服が重たい。
「びっっしょびしょだ⋯⋯」
「ほら、これで拭け。新品じゃねぇけど一番新しいやつだから」
「わっぷ」
頭を包まれ咄嗟に目を瞑る。柔らかな生地の肌触りと、嗅ぎ慣れない洗剤の香り。控え目なのに芳しいそれを鼻腔に満たす間もなく、そのままわっしゃわっしゃと髪を拭かれる。それはもうわっしゃわっしゃと。
「わ、ちょ、御幸く」
「こら動くなって⋯⋯よし、だいぶ拭けたんじゃね?」
髪を掻き混ぜられ続けることしばし。ようやく彼の手が止まる。頭部全体を覆っていたタオルがずらされ、頭巾のようなかたちで顔だけが露出する。目を開ける。
すると思いのほか近い場所にしゃがんだ彼の顔があって、わたしは「ふふ。御幸くんはキャップ被ってたから顔あんまり濡れてないね」と笑みを漏らした。
その刹那、顔の両サイドに垂れていたタオルを掴んでいた彼の手にくんっと力が入って。
「──っ」
引き寄せられる。
触れてしまいそうな距離でわたしを見下ろす双眸。成宮くんとは違う瞳。色も。かたちも。そこに秘められたものも。ぜんぶ違うのに。先週の練習試合のあの時のようにわたしの姿だけが同じに映り込んでいて、混乱する。
その混乱の中、彼の瞳から少しだけ視野を広げる。そうすると見えてくる。切なく苦しげに眉を寄せて。なのにまるで愛おしいものでも見るかのように、僅かに眼裂を細める彼の表情が。
「み、御幸⋯⋯くん⋯⋯?」
こう、思ってしまった。
そんな顔、しないで。と。
思ってしまってから、すぐに頭を振る。違う。わたしだ。わたしがさせているのだ。御幸くんに、こんな顔を。
今更気が付いたその事実。御幸くんも。そして成宮くんも。一体今までどんな気持ちで。
──遅い。気が付くのがあまりにも遅い。
「──御」
「なーんて。ちょっとは意識した?」
「⋯⋯っ」
わたしの心境の変化を感じ取ったのだろう。わたしの言葉を遮った彼は途端におどけてみせ、いつもの不敵さを滲ませた。明らかにわたしに配慮しての言動だった。しかし彼の気遣いが利いた機転に咄嗟に合わせることができず、むしろその台詞にどきりと肩を揺らしてしまう。
彼はそれを見下ろして。一瞬だけ眉を寄せてから、タオルの上からぼっふんぼっふんとわたしの頭を撫でた。
「いやー、悪りぃ悪りぃ、顔に出ちまってたな。ちょっと抑え効かなかったわ。⋯⋯だからお前がそんな顔する必要いっこもねぇよ。まぁその顔はその顔で唆られていーけどな。ごちそーさん」
次の瞬間、頭の上にあったタオルがふさりと視界を覆う。目の前が真白なタオル地で塞がれる。「それ、そのまま持ってって着替えの時にも使えよ」と言って、彼も自分のタオルを取りに部屋の奥へと向かった。
何の躊躇いもなくユニフォームのボタンを外し始める彼を見て、慌てて「あっ、あの、本当にありがとう⋯⋯わたしもすぐ着替えてくる。御幸くんも風邪ひかないようにね」と言い残し、部屋を出る。
カチャリとドアを閉め、俯く。ぐっしょりと濡れた靴が不快だ。纏わり付く服が不快だ。
浮かれてばかりだった自分が、不快だ。
「このままじゃ、だめだ⋯⋯」
言葉を吐き出すと同時に、拳を強く握る。顔を上げる。沈みかけた夕焼けが非情にも優しく染み渡る。
夕立はもう上がっていた。