そんな世界は間違っている


 ずっと、考えている。
 
 成宮くんと、御幸くんのことを。
 
 二人とも、同じ顔をするのだ。わたしに不意に触れたあと。辛そうに眉を寄せて、切なく目を細める。そんな顔を見せられては、嫌でも分かってしまう。

 ──彼らの想いが。

 こんなこと、二度とはないと思う。
 この先野球界で必ず活躍するであろう天才球児から──いや、例え相手がどんな人であろうとも、一時に二人から想いを寄せてもらえるなんて。

 浮かれていた。

 真っ直ぐに好意を向けてもらえることに、完全に浮足立っていた。他者から求めてもらえることで自尊心を立て直し、その心地よさに浸っていた。自分だけが傷付かない場所で、彼らの好意に甘えていた。自分のことばかりだった。相手の気持ちを鑑みることなど、できていなかった。
 
 いつまでもこんな態度ではいられない。それは許されない。自分には勿体ないくらいの想いを向けてくれる彼らと、真正面から向き合える自分でいたい。いなければならない。

 それなのに、考えれば考えるほど思考は混迷を極めていく。答えが出せない。出せなくて、焦って、わたしはついに、一人きりで考えることに匙を投げた。

 昼休み、教室の隅でお弁当を食べる準備を始めた花恋ちゃんに、意を決して打ち明ける。
 

「⋯⋯花恋ちゃん。その⋯⋯ちょっと悩みを聞いてほしいんだけど」
「うん。待ってたよ」
「え⋯⋯?」


 にこにこといつも通りの笑みを浮かべ、彼女は弁当箱の包みを開ける。

 
「いつ話してくれるかなって思ってたの。名前ちゃん、最近ずっと元気ないんだもん」
「え⋯⋯そうだった?」
「うん。それに何だか上の空で⋯⋯心配してたんだ。まさか先輩からヨリ戻そうって迫られてたりしてる?」
「先輩⋯⋯? ああ、そんな人もいたよね⋯⋯」
「うわあ全然違いそう! もうすっかり過去の人になってるじゃん」


 カチャリと小さな音を立てて、弁当箱の蓋が開く。「いただきます」と呟いてから、彼女はわたしへと視線を移し、首を傾げた。


「⋯⋯何がありましたか?」


 そう穏やかに問うてくれた彼女の瞳を見つめて、ゆっくりと口を開く。ぽつりぽつり。零したのは、春からの出来事。

 花恋ちゃんは何も言わずに相槌をうち、時折食事を口に運びながら話を聞いてくれた。


「──そっか。そんなことになってたんだね」
「⋯⋯わたし、自分のことだけだった。浮気されて、わたしなりに傷付いて、苦しくて⋯⋯今なら、浮気されたところでわたしの存在意義とか価値みたいなのは変わらないんだなって思えるけど、あの時はそんなふうに思えなくて⋯⋯」


 今でも、思い返せば血の気が引く。見知らぬ女性と仲睦まじく肩を並べ歩く後ろ姿。考えたくもないのに、先輩がその人と身体を重ねた場面が思い描かれてしまって、吐き気さえ覚える。

 数ヶ月が経ったとはいえ、まだ、振り返るだけでそうなってしまうのだ。渦中にいたあの時は、結構、参っていた。

 そんな時だった。わたしは確かに。

 ──成宮くんに、御幸くんに、救われた。

 
「突然二人の男の子から想いを寄せてもらえて、わたし、自尊心をもらってたの。浮気されてずたずたになった自己肯定感を、二人に埋めてもらってた。こうして考えてみると、自分を保つために二人の好意を利用してたみたいに思えちゃって⋯⋯」
「それは⋯⋯少し違うんじゃないかな。好きでいてもらえるのは誰だって嬉しいもん。舞い上がるし、浮かれる。その二人だって、そんなふうには思ってないと思うよ。やりたくてやってた事だろうし⋯⋯むしろ名前ちゃんの力になれて、嬉しいんじゃない」
「⋯⋯でも昨日、御幸くんのあの顔見てから⋯⋯わたし、酷いことしちゃってたんだなって思って」
「⋯⋯酷いことって?」
「二人の気持ちを知ってるのに、何ていうか⋯⋯ずっと返事もせずに曖昧な態度で⋯⋯」
「二人には、返事ちょうだいって言われてるの?」
「ううん、それはまだ⋯⋯いらないとも言われてない気がするけど⋯⋯練習試合の日の成宮くんのあれは、“この夏が終わったら返事をちょうだい”ってことだと思うんだけど。御幸くんは⋯⋯御幸くんには、直接的な言葉では何も言われてない、そういえば」


 二人とも、なのだ。

 わたしが彼らを意識するように。好きになるように。あの手この手を繰り出してきて、しかし、決してわたしの気持ちを確認しようとはしない。急かしもしない。

 優しいのだ。
 
 ただただ、彼らから与えられる心地のよい関係に、わたしだけが呑気に浸かっている。

 
「それならいーじゃん、今のままで。二人もそれを良しとしてるんだもん。名前ちゃんが迷ってるなら、無理に返事したりしなくても──」


 彼女はここで、言葉を区切った。
 わたしの顔をじいっと見てから、些か困ったように眉を下げる。
 

「──って、割り切れないから悩んでるんだね、名前ちゃんは。私だったら、決定的なこと言われるまでその状況楽しんじゃうなぁ」


 花恋ちゃんは案外、こういうことはきっぱりと腹を括れる性格らしい。相手がそれで良いって言ってるならいーじゃん。というスタンスだ。


「けど話聞いてると、ちょっと、何ていうか⋯⋯一癖も二癖もある相手なんだね。私、御幸くんって見かけたことくらいしかないから知らなかったなぁ」
「そうなの〜〜〜二人とも一癖も二癖も三癖も⋯⋯スポーツの才能ある人って皆こうなのかな?」
「まさかぁ」


 あっけらかんと笑われ、「そうだよねぇ」と項垂れる。
 
 話すことで状況の整理はできても、やはり解決には程遠い。そもそも、“このままではいられない”、”真正面から向き合う”ということはそれ即ち、自分の気持ちに答えを出すということだ。

 きっと彼女も、そこからわたしが逃げていることに気付いているのだろう。わたしの瞳を真正面から覗き込むようにして、静かに、そして穏やかに問う。
 

「じゃあ⋯⋯名前ちゃんは? 名前ちゃんは、どう思ってるの?」
「どう⋯⋯」
「御幸くんと、その、成宮くんっていう子のこと。どう思うの?」


 どくり、と。
 嫌にはっきりと脈打ったのは心臓だろうか。気付いていた。わかっていた。しかしそれを認めるのを、どこかで怖がっていた。今ここで口にしてしまえば、わたしの中でそれが“真実”になってしまう。


「⋯⋯花恋ちゃん、どうしよう」
「うん」
「わたし、二人とも⋯⋯好き、だなぁって⋯⋯思うの。思っちゃうの」


 掠れた本音。心に蔓延るのは罪悪感だろうか。零れ落ちたその声は、情けないほどに掠れていた。
 
 
「ふふ、やっぱり。だから名前ちゃん、こんなにこんがらがってるんだ」
「だ、だってぇ〜〜〜」

 
 半泣きで縋りついていた。

 例えば、の話だけれど。
 例えばどちらか一方が、何をどう努力しても好きにはなれなさそうな人であったなら。何も迷わずにいられたはずなのだ。気持ちは嬉しいけれど、とその人には丁重にお断りをして、そして、もう一人の手を取る。

 そういう未来を、選べたはずなのに。

 しかし現実はそう上手くはいかない。
 成宮くんも。御幸くんも。困ってしまうほどに、魅力的な人だ。知れば知るほど、好きになっていく。時間が経てば経つほど、彼らと過ごす時が恋しくなっていく。

 
「もし別々の時期に出逢ってたら、きっとわたし⋯⋯それぞれに恋してたと思う」


 神様は、意地悪だ。

 辛いことの後には幸せなこと。幸せなことの後には辛いこと。なぜ、こういうかたちなのだろう。なぜ、真っ直ぐに恋を実らせてはくれないのだろう。

 どちらか一方を選ぶということは、もう一方を傷付けるということだ。わたしを好きになってくれた人。わたしも、好意を寄せる人。それなのに。わたしが一人を選ぶせいで、大切なはずの一人を傷付けてしまう。


「でも、二人ともを選ぶことはできないから⋯⋯もう、わからなくて」
「⋯⋯じゃあどっちも選ばない? それとも、このまま三人でお友達でいる?」
「⋯⋯っ」


 何も言うことが、できなかった。
 
 選べないからといって二人の想いを受け取らない自分も、二人の想いを知っているのに応えもせずになあなあの関係を続ける自分も、到底受け入れることはできない。こんなにも慕ってくれる心を手放すなんて。想像するだけで、心が軋む。

 ──ああ、ここでも。結局わたしは、自分の気持ちを最優先にしてしまっている。傷付くことにも、傷付けることにも怯え、ただ、逃げる場所だけを探している。

 
「⋯⋯名前ちゃん」
「⋯⋯⋯⋯」 
「──名前ちゃん」


 はっと顔を上げる。心配そうな眼差しがわたしを見つめていた。昼食に手も付けずに、机の上で硬く握りしめていた両手に、そっと彼女の手のひらが重なる。

 
「私は、名前ちゃんがどんな未来を選んでも、名前ちゃんの決めた道を応援する。どこにも正解なんてないし、決めたことに負い目を感じることもないよ。⋯⋯きっと、これが恋っていうもので、恋をしたいって思う以上避けられないことで、皆それを覚悟で⋯⋯想いを交わし合ってるんだね」
「⋯⋯花恋ちゃん」


 涙目で見上げたわたしに微笑んでから、彼女は小さく呟く。

 
「みんながみんな、しあわせになれる世界ならいいのにね」
「──⋯⋯っ」


 俯いたわたしの前髪を、初夏の風が撫でていく。夏の訪れを告げる熱いはずの風が、酷く身に沁みた。





きみがしあわせにならない世界なんて




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