空気のなかに境界線
太陽が高い。じりりと眩しい太陽に手を翳し目を細める。気付けば夏大が間近となっていた。レギュラーメンバーも発表され、いよいよ本戦に向けて追い込みが始まる。それはつまり、毎年恒例の夏合宿の時期だということであり、今年の合宿の最後にはなんと稲実との練習試合も用意されている。
そのことを、最早日常となった成宮くんとの電話で昨夜話していた。
「今度さー、練習試合あんじゃん」
「うん」
「まぁ青道とやる時は流石に投げないけど、修北とやる時投げるからさ。見ててよね。あ、一応まだここだけの話だけど」
「うん偵察する! 任せて!」
「いやなんでそーなんの?! このニブチン! 俺のいい姿ちゃんと見ててよねって言ってんだけど?!」
「えっ⋯⋯、あ、はは」
しどろもどろに返す。高らかに偵察宣言をしてしまった。こちらの魂胆がバレてしまった上、成宮くんから時折繰り出されるジャブがこのタイミングで炸裂する。
彼はそのあとに「俺らなんて結局野球やってる時が一番なんだからさ」とどこか投げやりに溢した。それを聞き、わたしは曖昧に笑っていた口元を引き締める。
「⋯⋯そんなことない」
「ん?」
「そんなことないよ。野球やってる時はもちろん、その、格好いい⋯⋯ですけれども。『結局』『野球してるときが一番』なんてことは、ないよ」
言葉に熱が篭ってしまったことは自覚していた。それは恐らく、成宮くんの言い方に珍しく自棄のニュアンスが含まれていたのを感じたからだ。
彼が自分で自分のことをそんなふうに思う、なんてことがあるだろうか。考えてみる。可能性は、少ない。だとすると、ファンの多い彼のことだ。過去にそう思うに至る何かがあったのかもしれない。
とまあ邪推はこのくらいにして、兎にも角にも、それを否定したくて熱が篭ってしまったのだ。
言ってしまってから小恥ずかしくなり、スマホを持ったままひとり赤面する。すると成宮くんは数秒の沈黙のあとにくつくつと笑い出した。
「はは、なーんだ。全然効いてないのかと思ってたけど、そういうワケでもなさそうだね」
「? なにが?」
「俺のジャブ」
「ジャ⋯⋯」
「野球やってる以外の俺のこと、少しずつでも知ってくれてるんならよかったよ。てことで、じゃあね、おやすみー」
「あ、またすぐ切⋯⋯」
通話はいつも唐突に切れる。
彼の声のしなくなった液晶へと視線を落とし、わたしは静かに息をついた。
◇
そして迎えた練習試合当日。
予定されていた全試合を終え、空になったウォータージャグを洗おうとしていたわたしの背に、チームメイトのものではない声が掛かる。
「名前」
「あ、れ、成宮くんだ」
「お前のこと探してたらちょうどこっち来んの見えたから。何してんの?」
「ちょっとだけ時間空いたから、これ洗っちゃおうと思って」
流しの中に置かれた大きなジャグ。すっかり飲み干され一人でも難なく運べるようになったそれを示すと、成宮くんは何故かむっと口を結んだ。
「今はいーだろうけど、冬なんて大変だろ、寒いし水冷たいし。どうせ皆バット振りまくって手の皮の厚いんだから、ヤロー共にやらせればいーのに」
「あはは、そんな。これがわたしたちのお仕事ですから」
蛇口に手を掛け捻りながら、先程見た試合を振り返る。対修北戦で投げていた彼の姿。わたしたちがまだ見たことのなかった、彼のチェンジアップ。
「試合、お疲れ様」
「うん。ちゃんと見てた?」
「見てた見てた! チェンジアップやばいんだけど!」
「そーだろ?! 皆のあの驚く顔が見たくてさぁ⋯⋯ってそうじゃなくて! 何普通に世間話してんだよ。話があるからわざわざ探しに来たってのに」
「⋯⋯っ?!」
一瞬のことだった。
ぐ、と身体の距離が縮まって。透明な水が流れ出ていた蛇口を、彼の左手がキュッと締める。──ピチャン。最後の一滴が静かに落ち、やけに響いた。
「あ、の⋯⋯?」
至極至近距離で見つめられ、わたしは瞠目し息を止めた。目の前に立ち塞がる彼の姿に、こんなことを思う。
成宮くん、て、おおきい。あれ。こんなにおおきかったっけ。わたしを見下ろすその体躯の存在が急に大きく感じられて、困惑する。
もう少し線が細いイメージを持っていた。実際に初めて出逢った時にもそのイメージが変化することはなかった。否、無論、高校球児界で言えばの話で、背が低いとか痩せているとかそういった事ではない。そういった事ではなく、いや、けれど、これは。
「──⋯⋯っ」
きっと、今この瞬間に。わたしは成宮くんを一人の男の子として明確に意識した。骨格も体格も全てがわたしとは違う。
一人の、男の子として。
そうして赤面し「そ、その、近⋯⋯」とあからさまに狼狽えるわたしには一向に構わず、むしろ更に距離を詰めて、彼は口を開いた。
「夏、俺が甲子園行ったらさ」
「は、い⋯⋯え、いや、いいえ、甲子園はウチが行くんだけど⋯⋯」
「はぁ?! 俺らだし!」
「わたしたちだもん!」
つい今しがたの雰囲気などなんのその。瞬く間に犬も食わぬ言い合いが勃発する。
悲しきかな、これが甲子園を目指すライバル校の宿命である。こと甲子園の話となると、互いに一歩たりとも譲ることができない。「いーや、俺らだね」「わたしたちです」などと終わりのない主張を何度も繰り返し、そしてついには彼が匙を投げる。
「まぁいーや、今はその話じゃないし⋯⋯つっても勝つのは俺らだけど! てか黙って聞けよ俺の話!」
「それは成宮くんが一歩も引かなくて黙らせてくれないからで、むぐ」
彼の左手に口を覆われていた。視線だけで見上げると、「いいから聞け」とそのお顔に明記されている。これは実力行使で黙って聞かせるつもりだ。
まあ確かにこのままでは埒が明かないし、こんな小学生レベルの言い合いをしているところを誰かに見つかるのも恥ずかしい。大人しく彼の話に耳を傾けることにする。
「はー、やっと大人しくなった⋯⋯いい? 聞いてよ?」
「んむ」
「夏が終わったら、さ。もっかい告うから。それまでに俺のこと、めちゃくちゃ考えてよね」
「む、ぐ⋯⋯?」
突然の告白。
目を丸くして見上げると、そこには酷く真剣な目をした彼がいた。真っ直ぐにわたしを見て。しかしその口元には、相手を挑発でもするかのような不敵な笑みが浮かんでいる。それでいて空気はぴんと張り詰める。空気って、こんな一瞬で変わるんだ。頭のどこから片隅で暢気に感心している自分がいる。
きっとこれは、マウンドに立つ彼のほんの片鱗なのだろう。空気を変える。試合の流れを変える。味方も敵も関係なく圧倒していくその強さ。
打者と、そして捕手。
真正面に立つ者に向けられる彼という圧のほんの一部を、わたしは今、浴びている。
怖くはない。怖くはないけれど、緊張はしている。こんなに真剣な瞳に見つめられることも、こんな空気を当てられることも、初めてで。
逃げることなどできないのだと本能に理解させる、これが彼の強さ。
「返事は?」
「⋯⋯んむむ」
「ほら、へーんーじ」
「んむ⋯⋯」
一転して揶揄う体勢に転じた彼が、わたしの口を押さえたままで返答を要求してくる。この顔。この意地悪な顔。ぜひ全世界に見てほしい。
じとりと見上げると、彼は満足そうに笑いながらようやく手を離した。解放された唇の感覚を確かめるようにしながら、口を開く。
「あの、考えてって⋯⋯もう考えてる、のですけれど」
というか考えないことを許されていない節がある。メールに電話。そのどちらかが届かない日はない。これで成宮くんのことを考えるなというほうが無理な話である。
しかし彼は首を振る。
これ以上近付けないと思っていた距離が更に縮まって、鼻と鼻が触れそうな──いや、実際ちょっと掠めた──距離で、その摯実な瞳に見つめられる。どくり。心臓が聞いたことのない音を立てる。ひとたび呼吸してしまえばどんなに細い吐息さえも彼を掠めてしまいそうで、反射的に息を止める。
これだけで十分窒息案件であるのに、彼ときたら。その左手をわたしの右頬に添えたのだ。包み込むように、酷く優しく。
「いいや、足りないよ。もっと、もっと考えんの」
──俺しか見えなくなるくらい。
そう囁く彼の瞳の中に、わたしの影が映っている。綺麗な瞳だった。そこに映っているために自分までが綺麗な存在になったかのような錯覚に陥り、戸惑う。このままでは吸い込まれてしまう。成宮鳴という男の子の、その両の瞳に。
右頬に添えられた彼の手にくいっと力が入る。顔を僅かに上向かせられたかに思われた、その時だった。
「鳴ー! どこ行きやがった! 一分だけ野暮用っつって何分戻って来ない気だ! 出てこねぇと晩飯抜くぞ!」
刹那、ぱっと左手が離れて。息さえ分け合ってしまいそうな距離にあった彼の顔が、焦ったように四方を見回す。
「やばっ、雅さんだ! あの人本気で晩飯抜きにすんだよね。こんなに運動してんのに飯食わなきゃ死ぬっつーの」
瞬く間に天真爛漫さが戻る。今の今までわたしに触れていた手を掲げ、「じゃーね名前!」と彼は飛ぶように駆けて行ってしまった。
「⋯⋯な、⋯⋯なに今の」
一人取り残され、急に現実が戻ってくる。たった今自分の身に起こった出来事に、へなへなと座り込む。彼が触れていた頬に指を当てる。信じられないくらい熱い。鼓動が速くて胸が痛い。
気付けば呆然と口にしていた。
「き⋯⋯キス、されるかと思った⋯⋯」