これだって恋だった


 夏が、終わった。

 地区大会決勝戦。青道対稲実。青道は、逆転サヨナラ負けを喫した。

 夏が、終わってしまったのだ。

 毎日のようにしていた成宮くんとの電話も、メールも、さすがに試合当日にはなかった。わたしからも、声をかけることはできなかった。優勝おめでとう。甲子園頑張ってね。そう思っているはずなのに言葉にはできなくて、ただ、試合後に千羽鶴を手渡す貴子先輩の後ろで、唇を噛みしめていただけだった。

 感じたのは成宮くんの視線。恐る恐る目を向けると、何かを強く堪えたような、何かを強く決意したような、そんな表情かおをした彼と目が合った。

 勝者には似つかわしくない、表情だった。

 その日の夜は上手く眠ることが出来ず、真っ暗な部屋の中で何度も時計を確認した。針の進みが酷く遅くて、見るたびに苛立ちを覚えた。最後に見た時刻は四時二十五分だった。そのあといつ寝たのかは分からない。
 
 翌日目が覚めると、すっかりと日が昇っていた。ぼんやりとした頭で、母が用意してくれた朝食なのか昼食なのか分からぬ食事を摂り、惰性のように学校へ向かった。夏休み中で人気の少ない校舎を横目に、グラウンドへと足を運ぶ。その途中ふと気になり、食堂へと立ち寄る。カチャ、と開けたドア。その異様なほどに静かな空気に身震いする。

 本当に、終わってしまったんだ。

 そのことを改めて突き付けられ、心が悲鳴を上げる。
 ここに来たら皆が普段通り騒いでいて、昨日のすべてはわたしが見ただけの悪い夢だった。そんな現実を、少しだけ期待していた。


「夢だなんて、そんなわけないのに⋯⋯」


 のろりと視線を巡らす。その先には、こんな空気の中でたったひとり、真剣にテレビへ眼差しを向ける人。

 その名をぽつり、呟く。


「御幸くん⋯⋯」
「──苗字」


 余程集中していたのか、或いは何かを考え込んでいたのか。わたしが声をかけたことで初めて存在に気が付いたようで、御幸くんは弾かれたように顔を向けた。

 彼は一瞬、驚きに目を見開いてから。ほんの少しだけ唇を動かして、言う。

 
「どーした? 今日は部活休みだぜ」
「御幸くんこそ、あんな試合のあとなのに⋯⋯ちゃんと休んでください。ちゃんと寝たの? 身体は休まった?」
「うん、まあ」
「あは、うん、まあ、だって」
「何だよ。お前だって似たようなもんだろ」
「ふふ」 


 所在なく突っ立って話していると、彼が「座る?」と隣の椅子を示してくれる。少し逡巡してから頷き、近寄る。椅子を引くと、キィと擦れた音が響いた。浅く腰掛けてから、目の前のテレビをぼうっと見つめる。

 夢の中でも見た。試合の景色だ。


「⋯⋯ビデオ、昨日のだね」
「ああ」
「御幸くんは⋯⋯もう先に進むんだね」
「──ああ。いつまでも下向いてる訳にいかねぇからな。⋯⋯俺も死ぬほど後悔はあるし、めちゃくちゃ悔しいよ。けどそれは、前に行くことでしか越えらんねぇから」


 昨日の今日。わたしですらこんな気持ちなのだ。部員、ましてや実際に試合に出ていた彼らは、一体どんな気持ちを抱えて眠りについたのだろう。そして今なお、一体どんな気持ちで。

 だから、それでも顔を上げ、前を見ようとする彼の強さに、頬を打たれた心地になる。


「⋯⋯そういうとこ、御幸くんらしくて安心する。ほんとに、尊敬するよ」
「⋯⋯コラ、そういう顔で笑うな」
「え⋯⋯?」
 

 刹那、彼の腕が伸びてきて。身体を引き寄せられたかと思うと、次の瞬間にはその胸にそっと仕舞われていた。

 
「こんな時にそんな顔されたら⋯⋯抱きしめたくなっちゃうだろ」
「⋯⋯っ」
 

 ぎゅうっと。搾り取られたような音を立てた場所。どこか胸の奥のほう。そこがきっと、心の在り処なのだと思う。

 触れ合う彼の身体から、痛いくらいに流れ込む。その真意に気付かないことなど出来るはずもなかった。
 
 故に、ゆっくりと。はっきりと。
 わたしは、ふるふると首を振る。
  

「ごめん、御幸くん。ごめん⋯⋯っ」


 零れ落ちるのは懺悔。
 彼の想いに応えられないことへの懺悔が、酷く震えて落ちていく。

 その瞬間、彼の身体がびくりと強張って。挟まったのは束の間の静寂と緊張。それから彼は身の内からほうっと溜め息を吐き出して、わたしに腕を回したまま、顔を見ることのできる距離まで僅かに身体を引いた。

 切なそうな。顔だった。


「⋯⋯分かってたよ。お前があいつに惹かれてるってこと。一番辛いときにお前を救い上げたのも、あいつなんだろ」


 ずっと、考えていた。

 成宮くんと、御幸くんのことを。

 考えても考えても分からなくて、でも必ず、最後に浮かぶのは成宮くんの笑顔だった。嬉しいこと、悲しいこと、苦しいこと。何があっても頭の中には成宮くんにもらった言葉が蘇るようになっていた。

 御幸くんのことも、好き。──大好きだ。
 春から知れた彼のこと。変わっていった印象。彼と過ごす時間は心地よくて、いつからかその時間を、その存在を、大切に思っていたことは確かだ。確かなのだけれど。

 どうしても。

 どうしてもわたしには、成宮くんだったみたいなのだ。
 “好き”も。“好きの大きさ”も。どう違うのかは結局分からず終いだ。どんなに考えても上手く言葉にはできなくて、そんな自分が情けなくさえある。

 それでもわたしは、この気持ちの通りに生きてみようと思う。

 そしてこの選択が未来にどう影響したとて、後悔はしないような人生を歩みたい。自分の意思で御幸くんを傷付けるのだから。例え何があっても、「あの時別の道を選んでおけばよかった」なんて、絶対に思わないように。


「⋯⋯いやー、俺も脈なしじゃなかったと思うんだけどなー」
「⋯⋯御幸くん」
「タイミングってもんがあるんだろ? こういうことには。これがきっと、そういうことなんだろうな」


 彼の瞳がどこか遠くを見つめる。いつも白球を追いかけている、強いその瞳。それが少し、凪いで、揺れる。

 
「なぁ苗字。もしお前がさ、鳴と知り合ってなかったら⋯⋯俺を選んだか?」
「──⋯⋯っ」


 咄嗟に息を詰めてしまった。
 
 言えるはずがない。御幸くんの手を取らないわたしに、そんなこと。言う資格などない。

 溢れそうになる涙を堰き止め、成す術なく俯く。

 
「──や、悪りぃ、何聞いてんだろうな。かっこつかねぇな」
「⋯⋯御幸くん。本当に、ありがとう。わたし⋯⋯わたし、こんなふうに想ってもらえて本当に⋯⋯っ」
「いや、それは俺の台詞。苗字、ありがとな。──好きだぜ」


 初めて聞いたその単語。初めて彼が形作った四つの音。今このタイミングで──好きだぜ、なんて。

 
「い⋯⋯今言うなんて、意地悪だよ⋯⋯」
「ははっ、そーだよ、俺は性格悪ぃの。お前だって知ってんだろ。いつだって打算的に生きてんだよ」


 あっけらかんと笑ってから、彼は、座っていたわたしの手を引き立ち上がらせる。向き合っていた身体がそっと回され、彼に背を向けるかたちで真反対を向かされる。

 
「ほら。行け。あいつも今日は休みだろうから」
「っ、みゆ」
「──行ってこい」


 トンッ、と背中に軽い衝撃。両掌に背中を押された感覚。優しいのに有無を言わさぬその手に、ふらりと一歩、たたらを踏む。

 ──お前が今いるべきなのは、ここじゃないぜ。

 何も言葉にはしていないはずなのに、そんな台詞が聞こえた気がした。慌てて振り返ると、「ほーら。俺の気が変わんねぇうちに」と再度前を向かされる。

 その優しさに、その強さに、視界が滲む。わたしが逆の立場だったら同じことができただろうか。そう考え、涙が溢れる。

 一歩。二歩と。

 重たい足を引きずるようにして食堂を出て、とぼりとぼりと道を辿る。頬を伝う涙には構わない。こんなの。こんなもの。御幸くんの気持ちに比べれば。
 
 御幸くん。ありがとう。ごめんなさい。好きだよ。御幸くんのことも大好きなんだよ。でも、──でも。


「ごめんなさい⋯⋯ありがとう⋯⋯っ」


 彼には届かぬ場所で落ちたその言葉は、誰にも聞かれることなく夏の風に掻き消された。




 

確かに、恋だったよ




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