人呼んで胸焼け



 目の前でほろほろと頬を伝う涙。
 その雫を、綺麗だ、だなんて。思ったのははじめてだった。透明で。太陽に光って。白い肌を転がる。

 だからその涙を拭ってしまったのは、本能みたいなものだった。

 まだその感覚が残る指先で、画面をタップする。コール音は僅か二回。今日覚えたばかりの声が、耳元で静かに笑った。


「ふふ、ほんとにかかってきた」
「当たり前じゃん。嘘つきは泥棒のはじまりって習わなかったの?」


 照明も落ちた夜のグラウンド。誰もいなくなったベンチで見上げる夜空は、昼間の快晴のままだ。


「ちゃんと晩飯食った?」
「う、ん⋯⋯いや、あんまり」
「ちゃんと食え!」
「⋯⋯なんか食欲が」
「わかるけどさ、それでも食べんの!」
「ふふっ、はい」


 去年の夏。甲子園での大暴投の後、俺は一週間ほど塞ぎ込んだ。心にダメージを食らうと、食欲なんて出ないのも、眠れないのも、よくわかる。経験者だから。わかるけど。

 でも言わせてもらう。
 それでも食え! と。

 美味いもの食って、俺みたいに関係ないヤツに全部ぶちまけてすっきりして、そんで。いつもグラウンドで見せてるみたいな顔で笑えよ。

 そう思う。

 名前は知らないだろう。
 顔を合わせる度に、「一也、いい加減あの子紹介してよ」「は? やなこった」という会話が繰り返されていたことを。

 昼間の話を聞くまでは、“ウチのマネージャーに手ぇ出すなよ”という意味かと思っていたが、本当のところはそうでもないのかもな、と思う。

 こんな展開での接近は想像もしていなかった。しかし、このチャンスをみすみす逃すわけにもいかない。


「夜は寝れそう?」
「正直に言うと、どうかな⋯⋯って感じかな。まだ混乱してるし、なんていうか、決められなくて。彼氏と別れるかどうかとか」
「⋯⋯」
「もし友達がわたしみたいに迷ってたら、迷わず「別れなよ」って言うと思う。それなのに、自分のこととなると決められないの。⋯⋯ね、成宮くんはどう思う⋯⋯なんて聞いてもいい? 自分で決めなきゃとは思うんだけどさ」
「⋯⋯それさあ、俺に聞いちゃっていいの? 言うからにはオブラートなんてもんに包んだりなんかしないけど」
「うん。心してます」


 そもそも今でさえ相当言いたいことを我慢している。自分らしくなさすぎて、きーっ! てなりそうだ。

 それでも、傷ついた彼女に格好よく寄り添う俺、をちょっとやりたかった。それは見栄とか理想とか、自分のための気持ちの方が強いように思う。でもまぁそんなものだろう。それに、別にそれが悪いとも思わないし。


「本心はさ、さっさと別れなよって思ってるよ。何迷ってるんだろって。男なんていっぱいいるんだし、彼女を大切にできないようなヤツに囚われんなよって。時間の無駄、涙の無駄、マジもったいない。でも、まだ好きなんでしょ。それなら時間はかかっても仕方ないっつーか⋯⋯」
「⋯⋯え」


 名前がぼそりと発したその一言は、呆然としている様が電話越しでも容易に想像できるほど、なんと言うか、間の抜けた響きだった。

 不自然に思い、問い返す。


「⋯⋯? 何?」
「あれ⋯⋯わたし、あの人のこと好きなのかな⋯⋯?」
「は?」
「いや、なんか「好きです!」って即答できない⋯⋯あれ? 変、だよね⋯⋯?」
「変じゃないじゃん、冷めたって何もおかしくないよ」
「あ、なんていうか⋯⋯好きじゃなくなったっていうよりも、好きだったんだっけ? っていう気持ち」
「⋯⋯」
「⋯⋯」
「⋯⋯な」
「⋯⋯な?」
「何それ! ウケんだけど!」
「うわ! 笑うところじゃないです全然!」
「だってあんなにしおらしく泣いてたのにさ。何、もとから好きじゃなかったなんてあるわけ? 付き合ってたのに?」
「や、わたしも不思議⋯⋯ちょ、ちょっとちゃんと考えてみる、まって、時間をちょうだい」
「ププ、名前ってちょっとアホだね」


 思わず笑ってしまった。いやほんと何言ってんのこの子。

 名前に彼氏がいる──“いた”と表現したいけど──と知ったときは、一也のヤツわざと黙ってたな?! とか、つまんねーの、とか。内心で毒づいたのに。

 もし“好きじゃなかった”のだとしたら、しめたものだ。

 だって、これから俺を好きにならせようって相手に、俺以外に好きな男なんていらない。過去にも未来にも。

 俺だけでいい。

 そんな俺の気持ちなんて知らない名前は、「アホって言われちゃった」と、つられたように少し笑った。


「成宮くんは、なんでこんなアホに良くしてくれるの?」
「? そんなの一目惚れに決まってんじゃん」
「⋯⋯⋯⋯え?」
「だから名前が泣いてたら助けたくなるし、名前には悪いけどこんな機会すらチャンスだと思ってるよ」
「み、身も蓋もない⋯⋯」
「覚悟しときなよ。名前のこと、掻っ攫ってやるからな」


 あまり言葉になっていない言葉を発して狼狽える名前を笑って、「また連絡すんね。今日はさっさとベッド入りなよ」とだけ残して電話を切る。


 切って、ふうと溜め息をついた。

 ⋯⋯なんだこれ。

 胸がやけに熱い。熱い液体を注がれたように、甘ったるいお菓子を詰め込まれたように。それを落ち着けようと深いところから吐いた息さえ、妙に熱っぽかった。


こんな甘いって知ってた?




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