概念に憧れた
氷がカランと音を立てた。
時刻は二十時十五分。学校近くの全国チェーンファミリーレストラン。テーブルに置かれたグラスには一口もつけずに硬く噤んでいた口を、開く。
「⋯⋯お別れしてください」
「は?」
直後、返ってきたのはグラスにヒビが入りそうなほど威圧満載の一言だった。そのたった一音には多くの意味が詰まっていて、有無を言わさぬ服従を強要する雰囲気に怖気づいてしまう。
言外には、何言ってんだよ意味わかんねえそんなの許せるわけねえだろうんぬんかんぬん。である。
でも、言わなければ。決めたのだ。
「久々に会えたと思ったら、何言ってんのお前?」
「だから⋯⋯わたしとお別れ──」
「聞き返したんじゃない。何ふざけたこと言ってんのって聞いてんの。新手の冗談? 笑えないんだけど」
乾いた笑みだ。目の前の彼は確かに笑っているのに、心も表情もどこもかしこも笑っていない。怖い。このちぐはぐ感に、得体の知れない恐怖が忍び寄る。
「冗談なんかでこんなこと言わないよ」
「じゃあなに。少し会えなかっただけでこれかよ? 寂しがりすぎじゃね? 俺ももう大学生になったんだからさ、そこんとこ理解してもらわないと」
「⋯⋯」
「それともこの間すっぽかしたこと怒ってんの? あの日はごめんって。ゼミの急用で連絡できなかったんだよ」
「⋯⋯それは、」
それは、のかたちで開いたままの口。あの日のあの場面が、有り有りと浮かび上がる。
す、と細く息を吸う。
大丈夫。言える。大丈夫。「ダイジョーブ! 俺が大丈夫って言ってんだから大丈夫なの!」そう何度も言ってくれた成宮くんの声を思い出す。
「それは⋯⋯別の女の人とホテルに行く急用?」
わたしの言葉に、彼のかたちの良い眼が見開かれ、顔色がさっと変わった。
嘘をつくのが下手な人だ。そんな顔したら、わかってしまうではないか。あんなことをしたくせに、まだ、わたしのことも好きでいるのだと。
わたしのことなどもう嫌い、と。ひと思いに彼から別れを告げてくれれば楽なのに、なんて。そんな卑怯なことを考えていた自分に、頭の中で往復ビンタ。
そうそう上手くはいかないものである。
「⋯⋯な、お前、なんで、」
「なんでって⋯⋯あそこ待ち合わせの駅だったし」
「⋯⋯待ち合わせから二時間は過ぎてただろ」
「あの頃のわたしは健気だったんです」
彼は明らかに動揺していた。
視線は完全に泳いでいて、口を開きかけては閉じる、を繰り返している。辛抱強く待っていると、かなりの沈黙の後に意を決した様子でわたしを見た。
「⋯⋯ごめん。ほんの出来心だったんだ。あの一回だけだし! 俺にはお前だけだから」
「⋯⋯はい?」
「俺が好きなのは名前だけだから。なんつーか、ただの性欲処理だったんだよ。俺だって男だし⋯⋯ほら、名前さ、部活忙しくてまだヤラせてくれないじゃん。溜まっちまうもんは仕方ねぇだろ。だから特別な感情なんてもんは一切ない。俺には、名前だけ」
「⋯⋯⋯⋯はい?」
まるでお話にならない。
浮気男の言い訳常套句みたいなものをこうも綺麗に述べられて、思わず拍手してしまいそうになった。
好きだった人がこんな男だったなんて、というショックやら、恋は盲目だなんて諺がぴたりと当て嵌まる自分が情けないやら、何もかもに呆れ返って物が言えない。
でも、おかけでわたしは後腐れなく彼にお別れを申し込めるというものである。この境地に達せたのも、どれもこれも成宮くんの存在あってこそだ。
◇
あの日からも、成宮くんは何度も連絡をくれた。
成宮くんの気持ちを聞いてしまった手前、甘え続けるのもよくないかと思い、一度電話に出なかったことがある。しかし、留守電に残された「俺に変な気遣ってんならそーいうのマジやめてよね!」というメッセージと、そのあとの凄まじい鬼電に、わたしのなけなしの忍耐はいとも容易く折れた。
成宮くんとの雑談や悪態を交えた会話のおかげで、わたしは少しずつ心の整理を付けられた。ひとつずつ、彼との思い出を辿りながら。
彼は、わたしの友達──花恋ちゃんという──の兄の、友達だった。花恋ちゃんが、兄が玄関に忘れたお弁当を教室に届けに行くと言うのでついて行った時に、出会った。
「おー、花恋ちゃん⋯⋯ってあれ、今日は友達も一緒なの?」
「はい。三年生の教室って緊張するから一緒に来てくれて⋯⋯こちら名前ちゃんです、野球部のマネージャーなの」
「そーなんだ。ウチの野球部大変でしょ」
と、話を振られたのが最初。
三年生は皆大人びて見えたけれど、彼は、その中でも特に
「大変ですけど、でも、楽しいです」
「ふうん。俺、何かを一生懸命頑張る子って好きだな」
なんて言われて、流れで連絡先を交換して、翌月には告白されて、わたしは首を縦に振った。
今ならわかる。“恋をする。恋をしている。かっこいい年上の恋人がいる”。そんな概念に、わたしは憧れていたんだ。
でも、彼を好きだと思っていたのも本当だ。きっとこの気持ちは、嘘ではなかったと思う。楽しかったし、幸せだとも思っていた。
でももう、過去のことだ。
想い出に、きっとできる。
「⋯⋯どんなふうに言われても、わたしの気持ちはもう変わらない。っていうか、無理、だよ。だってその手が、知らない女の人に触った手なんだって、もう知っちゃったもん⋯⋯」
「⋯⋯そ、っか⋯⋯そうだよな。俺、ほんと最低なことしたよな。馬鹿だったわ。名前のこと傷つけて⋯⋯何も言う資格ねぇよな。ほんと、ごめん」
項垂れた彼に、一瞬喉元が詰まる。その瞬間、「情けは無用!!!! んなもん一ミクロンもかけてやるな!!!!」と言い切った成宮くんの言葉に、頬を叩かれた心地になった。
「⋯⋯じゃあ、これで。今までありがとう。大学生、元気で頑張ってね」
「あっ、名前!」
席から立ち上がったわたしを、彼が呼び止めた。振り返る。
「こんな時間だし、送らせてよ」
「⋯⋯ううん。もう、彼氏でも彼女でもないから」
「最後くらいいーじゃん。思い出話でもしながらさ」
わたしは目を丸くした。
な、何を言ってるんだこの人は。まるでお話にならないと思った次は、まるで話が通じないときた。驚きを通り越して、なんなら少し怖い。
「⋯⋯ほんとに大丈夫だから」
たじろぎながら告げ、お店を急ぎ足で離れる。しかしほっとしたのも束の間。胸をざわつかせる嫌な予感に抗えず、ゆっくりと振り返る。見ると、少し離れた場所で彼がわたしと同じ方向へ歩いていた。──帰る方向は別なはずなのに。
⋯⋯もしかして、ついてきてる?
ぞわりと背筋を冷たいものが這う。漠然とした恐怖。得体の知れないものに邂逅してしまった。
彼との距離は、だいぶある。
それでもわたしが早足になれば彼も早足になり、わたしが走り始めれば彼も足をより一層早める。
帰宅しようと思っていたけれど、予定変更だ。このまま家までついてこられたら堪ったものじゃないし、何より怖い。めちゃくちゃ怖い。恐怖に背を押される。気づけば全力疾走で、わたしは学校へと駆け込んでいた。
そのままの勢いで寮を目指す。
この時間なら誰かがどこかで必ず練習しているし、皆屈強な男の子だし、もうこの際誰でもいいからとにかく助けてほしかった。
ようやく辿り着いた寮の入り口で見つけた第一部員。バットを肩に担ぎ歩くその姿に、わたしは縋る思いで駆け寄る。
「み、みっ、御幸くん〜〜〜!」