きみの炎色反応



「苗字? どした? 帰ったんじゃなかったっけ⋯⋯っと、危ね」


 彼の手前で止まろうとしたのだけれど、近年稀に見る速力──こういうのを火事場の馬鹿力というのだろうか──を発揮していたわたしは、その速度を制御しきれず、御幸くんに体当たりするかたちで止まった。

 咄嗟に支えてくれた腕にしがみつくようにして、息も絶え絶えに助けを乞う。


「いまっ、別れっ、彼氏⋯⋯じゃないや、元彼がついてきて⋯⋯っ」
「は、別れたの? マジ? ってか何、ついてきてるって?」
「こ、こわ、怖、」


 どの順序で何を伝えたらこの状況を理解してもらえるのか。などと冷静に考えることはできず、浮かび上がったワードをとにかく喋るという阿呆の子に成り果てていた。


「大丈夫だ。落ち着け。ほれ、ひーひーふー」
「ひ、ひー⋯⋯って何させるの、やめてよ」
「はっはっはっ」


 本当に何をさせられるところだったのか。危ない。しかもまんまと落ち着いてしまったではないか。

 取り乱していた自分が恥ずかしくなって、おずおずと彼を見上げる。いつものように意地悪な笑顔で揶揄われるかと思ったけれど、そこには殊のほか優しい顔が待っていた。

 ぽこり。
 軽い音を立てて彼のてのひらが頭に乗る。


「落ち着けたか?」
「⋯⋯うん、ありがとう」
「よし。そんで? どうしたって?」


 肩から下ろしたバットのグリップエンドに手を掛け、彼はちいさく首を傾げた。なんて様になる画だ。ほんと、野球に関わらせたらいいとこばっか。


「今ね、別れ話をしてきたの。話はもうついたはずなんだけど、なんか追跡されてるみたいで、怖くなっちゃって帰るに帰れなくて。お母さん今日夜勤でいないし⋯⋯どうしよう御幸くん〜〜〜」
「⋯⋯そりゃ怖かったな」


 その声がこれまた殊のほか優しくて、わたしのほうが狼狽えてしまった。こんな御幸くん、初めて見た。


「⋯⋯で、でも、御幸くんに会えたからもう平気」
「何強がってんだよ、震えてんぞ」
「⋯⋯?」


 無意識に身体の前で握っていた拳。それを、彼の手がゆるりと解していく。ほんとだ。少し震えてる。自覚しているよりも、もっと本能的に恐怖を覚えていたのかもしれない。


「もう大丈夫だから。な」
「うん⋯⋯」
「? 何?」
「や、その⋯⋯今日の御幸くん、すごく優しいなあと思って」
「そうか? いっつもこんなんだけど」
「あはっ」
「コラ、何笑うんだよ」
「ふふ、だって⋯⋯あはは」


 一年を同じ部活で過ごしてきた。けれど、こんなにも知らない彼がいる。この短時間で彼の知らない顔をたくさん見た。

 印象が、──変わっていく。

 ついでにちょっと、心があたたかい。


「ところでさ、もしかして元彼って⋯⋯アレ?」


 わたしの来た道を辿るように、彼が指を差す。

 振り返りたくない気持ちと、振り返って確認しなければという気持ち。ふたつが競り合って、辛うじて後者に軍配が上がる。

 恐る恐る、振り返る。
 そしてわたしは叫んだ。


「ひい! あ、アレです〜〜〜!」


 敷地の境界付近で、こちらに背を向けスマホに視線を落とす姿を認めたその瞬間、反射的に彼の背に隠れていた。

 例えるなら、お化け屋敷で他者の後ろ──かつ自分の後ろにも誰かがいてくれれば尚良し──に隠れたくなるような。ホラー映画を誰かの影から覗いてみたくなるような。きっとそんな原理だ。わかんないけど。


「なんで、やだ、もう会いたくないのに⋯⋯ていうかほんと怖い⋯⋯」
「⋯⋯なあ、ほんとに話ついたのか? まだお前に未練あんじゃねぇの」


 肩越しに振り返りつつ、彼は念のためといった声音で問うてきた。


「浮気しておいて何の未練があると」
「は? 最低だな」


 秒で返ってきたその言葉に、思わず笑ってしまう。
 成宮くんといい御幸くんといい、気持ちがいいほどバッサリと切り捨ててくれる。嫌な思いをしたわたしにとって、救いのような言葉だ。


「まぁ諸々はあとで聞くとして、とりあえず追い払ってくるわ。気色悪ぃし。ついでに今後一切お前と関わりもたないようにしていーんだろ?」
「えっ、待って、だめ!」
「? なんで」
「なんでって、怪我でもしたらどうするの!」
「あれ、俺の心配してくれてんの?」
「当たり前でしょ!」


 痴情の縺れによる流血事件、なんていうのはよくある話だ。大切な選手をそんなちんけなモノに巻き込ませるわけにはいかない。

 対する彼はといえば、怒られているというのに嬉しそうに笑っていた。何ゆえ。もしや御幸くんにはその毛が⋯⋯いややめよう、絶対ちがう。


「変な心配しなくて大丈夫だって⋯⋯って、ん?」


 御幸くんの視線が再度前方へと向けられる。つられるように視線を動かす。元彼のもとに、同じ年頃の青年が自転車で乗り付けたところだった。

 あれ、あの人。


「花恋ちゃんのお兄ちゃんだ」
「はぁ、花恋ちゃんね、知らねぇけど」


 誰? と問う御幸くんの肩口から様子を窺う。二言三言交してから、花恋ちゃんのお兄さんは「まぁとりあえずウチ来いよ。話なら聞くから」とでも言っていそうなジェスチャーで、自転車を押して歩き始めた。そのあとを、どこか落ち込んだ足取りで元彼が追う。

 これは、もしかして。
 いや、もしかしてどころではなく確実に。


「ついてきてたんじゃなくって、花恋兄に泣きつきに来ただけ⋯⋯?」


 突きつけられた真実。目の前で繰り広げられた光景に、わたしたちの間を気不味い沈黙が横切る。ヒュールルル。春のぬるい夜風が無情だ。

 長い沈黙を経て、御幸くんは呟いた。


「⋯⋯苗字」
「⋯⋯はい」
「何か言うことあるか?」
「⋯⋯わたくしの勘違いによりお騒がせしたことを深く反省しております」


 顔から火が出そうだった。というか出た。恥ずかし過ぎて御幸くんの顔を直視することができない。埋めてほしい。

 消えそうな声で「ごめんね」と呟くと、彼は肩を震わせながらいつもの不敵な笑顔を見せた。


「いーよ、お前がこの先怖い思いしないで済むってだけの話なんだからさ、何も謝ることじゃねえけど⋯⋯はははっ」
「ほんとごめんね、恥ずかしい」
「いやいや、怖かったもんな。何もなくてよかったよかった」


 けたけた笑いながら、彼はぽっふぽっふとわたしの頭を撫でた。完全に面白がられている。

 けれど、御幸くんのこんな顔が見れたからいっか。なんて落とし所をつけ、わたしも一緒になって笑ってみる。

 ──心がふわり、軽やいだ。



 翌日、花恋ちゃんから事の顛末を聞くことになる。曰く、「お兄ちゃんにしこたま叱られてたよ。ヨリ戻したいって言ってたけど、最後にはそれも諦めたみたい」とのことだ。そのあと、「わたしが出逢わせたみたいな感じだし⋯⋯傷つけちゃってごめんね」と謝られた。どこに花恋ちゃんが謝らなければならない要素があるというのか。優しすぎて涙出そう。という会話を最後に、元彼は苦い想い出の人となった。


燃えてみないとわからない




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