月の燃えかす



「一件落着したことだし、帰んだろ? 駅まで送ってく」
「えっ、ううん、これから素振りするんでしょ? ただでさえ巻き込み事故しちゃったのに」
「今の話聞いたあとに一人で帰せねえよ」


 つーかどんな状況でも、帰せねえだろ。こんな時間に、女子ひとりで。


「でも⋯⋯結局わたしのアホな勘違いだったのに?」
「そ、お前のアホな勘違いだったとしてもだよ。跡つけられてた“かも”っつーだけで、怖えだろ」
「⋯⋯」


 苗字は、咄嗟の返答に詰まったようだった。きっとあれこれと考えているのだろう。

 選手の時間を奪うわけにいかないとか。これ以上迷惑を掛けられないとか。でも、断るのも却って悪いだろうかとか。

 そういう奴だ。

 だから俺は、バットを寮の壁に立て掛け、さっさと歩き出す。今この状況で選択権を苗字に渡すのは得策ではない気がした。


「じゃ、行くか。家つくの遅くなっちまうぞ」
「⋯⋯ありがとう」


 おずおずと隣に並んだ姿に頷く。素直に来てくれてよかった。

 彼女に合わせた、慣れぬ歩幅に慣れぬ速度。風が吹けばどこからか甘い香りがする気がして、出所を探ると必ず隣の彼女に行き着く。

 こんなのを隣に置いておいて、よく浮気なんかできるな。なんかもうすげぇわ。マジで理解不能。宇宙人か?

 そんなことを考えていると、いつのまにかまじまじとした視線を向けていたらしい。首を傾げ、見上げてくる視線とぶつかる。


「⋯⋯? なに? 何かついてる?」
「いや⋯⋯なんか苗字、思ったより元気っつーか、なんか吹っ切れてんなって思って」
「ふふ、そんなことないよ。たくさん迷ったし泣いたし。でもそうだね、今は、すっきりしてるかも。成宮くんのおかげかなあ」


 最後に聞こえた人名に、俺は「は?」と問い返していた。俺──というかこの地区で野球をしている者──にとっては馴染んだ名前だ。

 けど、なんで。
 なんで、苗字の口からその名前が出る?


「待て待て、成宮って⋯⋯まさかとは思うけど」
「ん?」
「鳴とか言わねぇよな」
「あ、そうだったね、昔から知り合いだもんね。名前で呼び合ってるし、実は仲良し──⋯⋯っむぐ」
「滅多なこと言うな。気色悪ぃ。てかなに、どこで知り合ったんだよ」
「んむむ」


 滅多なことを言うものだから矢庭に抑えた彼女の口元。もごもごと何かを話そうとするやわらかい唇が、抑えていた俺の手のひらを掠る。はっとして手を離す。


「あ、悪ぃ」
「ふふ、ううん。わたしこそごめんね。えっと、成宮くんとは本当にたまたま会ったの。ちょうど浮気された直後で、わたしもちょっと不安定で⋯⋯流れで慰めてもらっちゃって」


 苗字の表情から、今回の件に関しては鳴の存在が大きかったことが嫌でもわかってしまった。

 ムッと唇を結んでしまった、その時だ。苗字の鞄の中で小さく電子音が鳴る。


「ちょっとごめんね、電話だ⋯⋯あ、噂をすれば成宮くん」
「貸して」
「あ!」


 間髪入れずにその手からスマホを拝借する。鳴に一言二言物申さずにはいられなかった。

 呆れた顔で「もう、二人ともすぐ携帯取る⋯⋯」と呟く苗字を横目に電話に出ようとして──


「ごめん、これどーやって出んの?」
「あはっ、御幸くんガラケーだったね」


 笑いながら俺の手の中の画面を操作する苗字の様子からは、拒否は感じられない。俺と鳴が旧知──というと若干語弊がある気がするが──と知っているからか、苗字の気質なのか。

 何はともあれ、電話に出る。
 こっちが発言するより先に、鳴の声が聞こえてきた。


「ダイジョーブだった? なかなか連絡ないから心配してんだけど」
「大丈夫っちゃ大丈夫だし、そうじゃないっちゃそうじゃない。てかお前何勝手なことしてんだよ」
「げ、この声絶対一也じゃん! お前こそなんでこの電話出てんの?! 名前は?!」


 鳴が苗字を名前で呼んでいることに、鳴が苗字の近況に自分よりも明るいことに、無性に腹が立った。

 鳴が苗字を気にかけていることは知っていた。だから下手に接点を持たないように手を回していたし、俺は俺で、こっちが手を出すより先に彼氏を作った苗字に対するチャンスを長いこと窺っていた。

 それなのに、だ。

 タイミングもさることながら、簡単に苗字の心に入り込んだ鳴を面白くなく思ってしまうのは、当然だ。


「色々あって駅まで送ってんだよ。⋯⋯なあ鳴、お前、こんだけ苗字にちょっかいかけるってことは、そういうことでいーんだよな?」
「いーよ。名前にも俺の気持ちは伝えてあるし。一也も勝手に頑張れば」
「⋯⋯な」
「ねえ、ていうか名前は?! 早く替わってくんない?!」


 鳴に気を取られ、僅かの間苗字を視界の外に置いていた。鳴に言われ、ふと後ろを振り返る。

 振り返って、俺は瞠目した。

 そこにいるはずの苗字の姿が──なかった。





泥棒って思うよな




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