夢みたいな話をしよう





 屋上を飛び出してしまった名前を、陣平は呆気に取られぽかんと見送った。バタン、と扉が閉まった音で我に返り、慌てて名前の後を追う。

 陣平の頭の中で、名前の言葉が繰り返される。陣平くんて、好きな人いるの? だ? 何言ってんだアホか。俺のどこを見てたらそんな疑問が浮かぶわけ? 好きなヤツとか、お前に決まってんだろバカヤロ。


「っとに、バカヤロ⋯⋯」


 屋上に共に入り浸って一年も経つというのに、名前は陣平の気持ちにまったく気付く様子がない。陣平からしてみれば何で気付かねえんだよ、というレベルなのだが、それは萩原のように陣平をよく知ってでもいなければ、分からないレベルでもあった。

 名前は、屋上で出逢う陣平しか知らないのだ。
 例えば、こんなに居心地よく時間を共にできる異性は名前が初めてなこととか、名前の前では普段よりも雰囲気が柔らかくなることとか、名前に対しては意地悪なちょっかいが増えることとか、そもそも他人のいる屋上に足繁く通うような性格ではないこととか。

 これらは些細な、しかし陣平にとってはおおきな変化だ。けれど皮肉にも名前には分からない。松田陣平という人間は、もともとこういうかたちなのだと。名前はそう認識しているからだ。

 しかし陣平は陣平で、まさか名前が陣平を“そういう人間と捉えている”などとは知らぬわけで、故に名前の質問──陣平くんて好きな人いるの?──に容易く臍を曲げ、あのような意地悪を言ってしまった。

 てっきり「なによお、教えて教えて、いーじゃない」といつものように言葉が返ってくると思っていた。そうしたら陣平は「どんだけ鈍感だよバーカ」と笑うつもりだったのに。

 高校生。恋に不器用な年頃の二人には、屋上で過ごす時間だけでは、少し、足りない。

 今しがた最後に見た名前の顔を思い出す。
 不自然で。どこか強がっているようで。何かを堪えているような。陣平の胸が妙にザワつく表情をしていた。

 追いかけないわけには、いかなかった。

 校内を駆け、ひと気のない校庭の隅に目が届くようになった時だ。漸く名前の姿を見つけ、しかし駆け寄ることは出来ずはたりと足を止める。何故ならその視線の先では、恐らく泣いているのであろう、俯き顔を覆う名前と、その肩を擦っている萩原が並んでいたからだ。


「萩⋯⋯? 何であいつと⋯⋯急用って⋯⋯?」


 ザァ、と風が吹く。
 陣平と名前の間を吹き抜けた風に、桜の花びらが舞っている。

 名前には、肩に回った腕に抵抗する様子も、涙を見せまいと意固地になっている様子も見受けられない。


「んだよ、俺に気あんのかと思ってたら⋯⋯チッ⋯⋯結局女は萩原がいーのかよ⋯⋯」


 酷く寂しげな陣平の声が、花びらに紛れて、落ちた。





 午後一の授業を終えた教室に、萩原の声が響いていた。


「オイコラそこの馬鹿タレ!!!」
「ああ゙? 誰が馬鹿タレだって?」
「お前だよお前! 陣平ちゃんの言葉足らずが過ぎるせいで名前ちゃん盛大な勘違いしてんぞ?!?!」


 萩原の口から名前の名が出た途端、陣平の顔がかつてないほど不細工な仏頂面を作った。


「あっそ」
「あっそって! だいたい陣平ちゃんはいっつもいっつも──」
「悪い、萩。あいつの話はしねえでくれ」
「は? 何で」
「何でも」
「何でも、だ? ヤダね。このままじゃお前ら元に戻れねえとこまで行っちまう。早いとこ名前ちゃんの誤解解かねえと。まず何があったのか詳しく話せよ」
「いや⋯⋯いーよ」


 陣平の視線が、窓の外へ向く。

 名前の涙を受け止めるのは、自分だと思っていた。いつかの屋上みたいに、陣平の胸で。名前は人前では涙を見せようとしないから。だから、陣平が受け止めたかった。

 しかし萩原の前で泣く名前を目の当たりにして、揺らいでしまった。名前に近いと思っていた自分の立ち位置が、こうも容易く。

 陣平には、名前の涙の理由すら分からないというのに。


「⋯⋯少し放っといてくれ」
「⋯⋯陣平ちゃん。今すぐその重たいケツ上げなきゃぜってー後悔するぞ、馬鹿野郎。知らねえからな!」


 きっと、こんなことは良くあることだ。
 思い違い。タイミング。言葉選び。どれかひとつが上手くいかなくて、すれ違う。そんなこと、世界中にあふれている。

 あふれては、いるのだけれど。

 得てして当人たちは、何かを悟って諦めたあとに、その事に気がついたりするわけだ。





「わたし、そろそろここ来るのやめるね」


 弁当箱に詰めていた蓮根の挟み揚げを陣平の口に放り込み、名前は「今度のお弁当は蓮根じゃなくて茄子に挟もうかな」くらいのトーンで呟いた。

 名前が屋上を飛び出してから三日後、次に屋上に来た日のことだった。


「⋯⋯は? なんで」
「知ってた? こう見えてわたし! なんと受験生なんです!」
「うわ⋯⋯完全に忘れてたわ、お前が年上ってこと」
「んまー、失礼! とにかく、ここで麗らかな休み時間を送れるほどの余裕がないの、残念ながら。浪人するわけにもいかないしね。生徒会もまだ仕事あるし、それに⋯⋯」


 それに何だか、会うのが辛いよ。

 顔を見るたび好きだと思う。話すたび好きが募る。止めどない。止まらない。

 止まらないから、辛いのだ。


「陣平くんが来たい時には鍵開けるから、これまで通り使っていいよ。でも他の人は入れないでね、バレた時に庇えないし」


 嘘だ。
 名前と陣平だけの場所。二人だけの場所だった。そこに何者にも紛れてほしくなかっただけ。

 最後の、わがままだ。


「お前が来ねえんなら、俺も別に──」
「ん?」
「⋯⋯いや、分かった。んじゃあ使いたい時は適当に連絡するわ」
「うん」


 こうして名前が、屋上に現れることはなくなった。萩原の言っていた“誤解”が何なのかを解明する時間も与えず、ぱったりと。

 屋上で会えなければ、名前と陣平が会う事もない。稀に校内で姿を見かけることはあっても、気が付くのはどちらか一方のみ。互いの表情を確認することすら叶わなかった。



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