夢みたいな話をしよう





 その視線が漸く交わったのは、名前が受験を終え、卒業式を翌日に控えた日のことだ。

 実に一年近くが経っていた。

 ほとんどの三年生はもう登校しておらず、校内には一、二年生ばかりが目に付く。名前は在校生の授業が始まる頃を狙って校舎へと足を運び、最後の見納めのつもりで屋上へと向かった。

 明日で、卒業だ。

 三年間を過ごした。思い返せばたくさんのことがあった。友にも恵まれ、楽しい日々を過ごすことが出来た。それでも思い起こされる最たる場面は、陣平と過ごしたこの屋上だ。

 あの日々は、──眩しかった。

 屋上のフェンスに手を掛け、やわらかな青空を見上げる。思い出が空に散らばって、きらきらと目映い。それらが酷く愛おしく思えて目を細めた──その時だ。


「名前」
「きゃあ!!!」


 何の前触れもなく背後から掛かった声に、名前は飛び上がった。掴んでいたフェンスがガシャン! と鳴る。

 振り返らなくても分かった。おおよそ一年聞いていなくても、まだその声音をしっかりと覚えている。耳朶をくすぐるような。低く滑らかな声。


「陣平⋯⋯くん、びっくりした」
「よお」


 軽く片手を上げた陣平が、扉を閉めてから近付いてくる。

 そろそろ成長期も終わる頃だろうが、少し背が伸びただろうか。顔付きも、少し大人びた。ふわりと動く癖毛は変わらない。ポケットに手を突っ込んで歩くその仕草も、歩き方も。


「何でここにいるの⋯⋯?」
「や、歩いてんの見えたから。餞別に来た。鍵とか世話んなったし」
「そう、餞別に⋯⋯ていうか授業は?」
「んなもん腹痛えとか適当なこと言って」
「あははっ」


 一年という期間があったからか。明日で卒業だからか。最後に陣平に会った時と比べると、随分と心が軽い。まだ胸は痛むが、それよりも普通に話せたという事実に安堵が広がる。

 会うのもこれが最後であろう。

 上手く恋を紡げなかった名前だが、最後くらい、笑って話せる自分でいたい。

 そう、強く思う。


「久しぶりだね。元気だった?」
「おー、この通りよ」
「わたしも元気! 無事に大学も合格したし!」
「へえ、そりゃよかった」
「ありがと」


 陣平が隣に並ぶ。やはり、背が伸びた。一年前より少し高い位置にある双眸を見上げる。先程名前が見ていた空を映す陣平の瞳は何も変わっていなくて、あの日々に戻ったような心地になる。


「明日で卒業だってさ。なんか早かったなあ」


 そう呟いてから、フェンスに向かっていた身体を開き、陣平に向き直る。今なら。きちんと言える気がする。想いを、ではなくて、──感謝を。


「楽しかった、本当に。ここで陣平くんと過ごせて、楽しかったよ。⋯⋯ありがとう、ここで一緒に過ごす時間をわたしにくれて」
「⋯⋯何だよ、急に、そんな言い方」
「ずっと言いたかったの。わたし自分で思ってたより口下手っていうか、素直になれないっていうか、ちゃんと自分を口にできないんだなって⋯⋯凄く後悔してたから。最後に言えてよかった」


 これからは、もっと素直に伝えられる自分でありたい。

 陣平に伝えられなくて、死ぬほど後悔した。あのようなかたちで恋を諦めてしまったことだけが、高校生活の心残りだ。

 もう二度と。こんな後悔をしない人生を歩みたい。自分の心を伝える勇気を持ちたい。

 人はいついなくなってしまうか、分からないのだから。

 言いたい事を言って一人すっきり気分爽快だった名前に、一歩、陣平が近付く。


「⋯⋯なあ名前、お前ほんとに卒業すんのか?」
「あははっ、何それ。するよー、明日ね」


 変なこと聞かないでよね、と笑う名前に、もう一歩、陣平が近付く。


「すんなよ」
「⋯⋯え?」
「すんな。留年しろ」
「ふふ、やだ、何その冗だ──」


 何その冗談? と笑いたかった。しかし陣平の真剣な眼差しに、その異質な雰囲気に、そして身体と身体の物理的な近さに、名前はぴたりと言葉を止める。


「え、じん、ぺ──⋯⋯っ」


 ガシャン。

 背中が硬い何かに当たる。⋯⋯フェンス、だ。フェンスに押し付けらている。片手は縫い止めるように握られ、もう片手で頬を包まれ半ば強制的に上を向かされる。

 理解の追い付くいとまは、与えてはもらえなかった。

 吐息が重なる。
 唇が重なる。

 荒々しくもやわらかく、名前の唇を攫うような。初めてのキスが、──初恋に奪われる。


「⋯⋯っ、や」
「何で⋯⋯あの時萩原の前で泣いたりしたんだよ⋯⋯さっきみてえな思わせ振りな事言われたら、ずっと抑えてたもん、抑えらんなくなるだろうが⋯⋯」
「? ⋯⋯陣、⋯⋯んんっ」


 ──舌、が。

 陣平くん、と呼び掛けようと開いた唇に、間髪入れず舌が差し込まれる。唇の触れるキスさえ初めてなのだ。ましてや舌など。柔軟でぬくい舌の感触に、名前の背筋を知らない何かが駆け上る。咄嗟に身を捩るが、そんな名前の抵抗など何の意味も成さず、陣平は事も無げに名前の口内を蹂躙する。

 痛い。きつく握られた手が。フェンスの硬さが。ずっと蓋をしていた、──心の奥が。

 どれ程唇を重ねていたのか。
 絶えず与えられる甘美で残酷な悦楽に、ついぞぐずりと足が崩れそうになる。それに気付いた陣平が、ようやく名前を解放した。

 はあ、と自分のものとは思えぬ吐息が落ちて。互いの荒くなった呼吸だけが聞こえる静寂の中、とん、と陣平の胸板を押す。


「なに⋯⋯っ、するの」


 軽く胸を押されたくらいではびくともしない陣平は、名前をフェンスに追い込んだまま、その表情を見下ろしていた。

 真っ赤に上気して。今にも零れそうな涙をいっぱいに湛えて。怒っているのか、悲しんでいるのか、眉を寄せて陣平を見上げてくる。陣平が幾度も食いついたせいで艶やかに光っている唇がどうしようもなく色っぽくて、陣平は再度顔を近付ける。

 それを、名前がぷりぷりと制した。


「っ何するの陣平くん、酷い! バカ!」
「バカァ?! お前が俺のこと弄ぶからだろ! 天然か?! 自業自得だバカ!」
「弄⋯⋯っ?! 意味分かんない、そんなことしてないもん! それは陣平くんでしょ?! 他に好きな人いるとか言ってたくせに、こんな⋯⋯」
「⋯⋯は?」


 名前の言い分がよく分からず、陣平の口が間の抜けたかたちに開く。


「忘れようと思ってたのに、ど⋯⋯して」
「おい⋯⋯何の事だよ」
「陣平くんのこと好きな気持ち、ここに置いていこうと思ってたのに、どうして? ⋯⋯どーしてこんなことするの⋯⋯っ。なんで、こんな、こと。忘れたくても忘れられないじゃない⋯⋯」


 ぽろぽろと零れる涙とともに、名前の言葉が溢れてくる。堰を切ったように流れ出るそれは難なく陣平の心に染み入って、縺れていた糸を解していく。

 今、名前はこう言ったか。陣平に他に好きな人がいる? いつ、どうしてそんな思い違いを。

 走馬灯のようにこれまでの日々が巡る。一年前のあの日と、萩原の言葉。それが蘇って、陣平は瞠目した。

 あとは⋯⋯何と言った。陣平のことを、好きだと言わなかったか。それをここに捨て置き、忘れようとしていたと。

 そうだ、聞き違いではない。確かに、そう言った。そうか、だからあの日。名前は萩原に涙を見せたのか。

 ──ああ、なんて。なんて馬鹿なんだろう。


「バカ、陣平くんのバカ⋯⋯っ! ついうっかり言っちゃったじゃない⋯⋯こんなふうに言うんじゃなかったのに」
「お前⋯⋯言うのおっせーんだよ⋯⋯んなの俺の方がずっと好きだったっつーの」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯は」
「つーかバカバカ言い過ぎだし。ふざけんな、バカって言う方がバカなんだよ」
「⋯⋯っ、じん、ぺ」


 名前をきつく抱きしめる。

 どうして。陣平も、そして名前もだ。こんなに不器用なのだろう。素直になればそれだけでよかった。心にひたむきで在りさえすれば、未来は違っていたのに。

 腕におさまるやわらかな身体の耐え難い愛おしさに、気が触れてしまいそうで。何事かを言いたそうに身を捩る名前を、いっそう抱きしめる。

 今日で、道は分かたれる。

 名前は明日で卒業してしまうのだ。今更想いを知ったとて、どうすることもできない。今から付き合うということにはならない。もしそうなってしまえば、せっかく通じた想いが今度こそ壊れてしまう。大学生と高校生。その立場を引っ提げて名前と陣平が良好に関係を紡ぐには、同じ場所で過ごした時間が足りな過ぎる。ここから関係を始められるほど器用な二人ではない。何かしらの齟齬で、互いを傷付けてしまう。

 その未来だけが、明白だった。

 こう思っているのは恐らく、名前も同じだ。だから互いに何も言えない。好き。好きだ。ただその気持ちを伝え合うよりほか、成す術が見つからない。

 こんなにも好きなのに。

 たった一年分の歳の差が、あまりにも重たい。

 埋められないそれを埋めたくて、ただ、唇を重ねる。髪を梳き、背に縋ってくる細い体躯を掻き抱いて。名前の涙の間に零れる「好き」を舐め取りながら、一生消えない恋痕を残す。

 深く深く、光さえ届かぬ心の奥底に。


「じんぺ、く⋯⋯っ」
「⋯⋯名前、」


 今日だけ。今日だけだ。今日だけでいいから。いや、今日がこのまま永遠であってくれ。

 忘れないでくれ。
 いや、忘れて、──幸せになってくれ。

 どれも言葉には出来なくて、整理のつかない頭でただ、目の前の身体を抱きしめる。


「陣平くん、ありがとう⋯⋯ばいばい」


 こうして名前は、卒業していった。





 たまに、夢だったんじゃないかと思うことがある。屋上で。ちいさくちいさく紡いだ日々。いつまでも褪せることなく、二人の奥底で息衝く日々が。


それはまるで、灯籠みたいな



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