蒲公英に結わう





 ぬるい夜風が吹く。さして強くもなかったが、前髪が煽られ額が覗いた。視界の隅で道端のたんぽぽが、くすりと揺れている。

 その風景に、不意に何かが思い出された気がした。

 いや、思い出してはいない。“何か”という曖昧な感覚だけだ。どこか懐かしく、そして切ない感覚だけが胸を占める。

 その心地の悪さに、陣平はふと足を止める。引っかかっているのだ。もう少しで“何か”であり“曖昧な感覚”であるものが思い出せそうな気がするのに。思い出せない。


「あー⋯⋯くっそ、何だよ」


 思わずそう呟いた、その時だ。数歩前を歩いていた男が、振り返る。


「松田? 置いていくぞ」
「あ⋯⋯おう」


 降谷だった。
 この春に入校した警察学校の同期で、入校当初は殴り合いをするほど馬が合わなかった。当初は、ということは、ひと月も経った今はそうではないということだが、その降谷に加え、伊達、萩原、諸伏という鬼塚教場の面子で飲み屋で夕食でも、と外出し掛けのことだった。


「どうした?」
「いや⋯⋯何でもねえ」
「?」


 首を傾げている降谷の隣に並ぶ。どうした、と聞かれても。自分でも答えようがない。陣平こそ聞きたいのだ。

 今のは何だ? と。

 釈然としない心地のまま道を辿る。同期の話にも恐らく適当な相槌でも打っていたのだろう、気が付けば店の暖簾を潜っていた。

 酒でも飲めば気分も変わるかと思い、なみなみと揺れるビールを胃に流し込む。しかしどうやらそうそう単純でもないらしい。胸のどこかにほんの少しだけ引っかかった“何か”が、非常にいずい。酒を飲んだところで、腹を満たしたところで、そのつかえが取れることはなかった。

 テーブルを囲む面々を見回す。毎日毎日見る顔だ。この顔に囲まれて、馬鹿みたいなことを言い合って、笑って、飲んで、食べて、ピンチを切り抜け、悪さをし、そうして少しずつ距離が縮まってきた。皆、良い奴だ。幼い頃から一緒にいる萩原は除くとしても、この短期間で信頼を置けると思うだけの人間だ。そう陣平は思っている。

 無論、そんなこと口に出したりはしないが。


「おーい、何? 陣平ちゃん。なーんかさっきから上の空って感じだけど」
「ん? ああ⋯⋯何か、もやもやしててよ。自分でもよく分かんねえんだけど」


 先程降谷に問われた時には打ち明けなかった気持ちが、萩原相手だとつい、ぽろっと零れ落ちていた。

 こういう拍子に思う。

 陣平にとって萩原とは、いつになってもこういう相手なのだろう、と。


「へー、なになに、恋煩い? 陣平ちゃん、恋するとすぐ胸もやっとするもんなー」
「はあ?」
「へえー、松田もそんなふうになるんだ。あ! この間の合コンで気になる子いたとか?」


 口を挟んだのは諸伏だ。穏やかで誠実な好青年だが、先日他の教場と行われた合コンでそんな相手はいなかった──何せ女は皆萩原の周りできゃっきゃしていたし──と分かっていて聞いてくるあたりが、意外と食えないというか、意外とおちゃめというか。

 諸伏の口から発せられた「合コン」という単語に、今度は萩原が反応する。


「あ! そういや、別の合コンの話来てんだけどお前らどう?」
「またタダ酒か? それなら行くぞ」
「ハハハ」


 結果として自然と自分以外に話が逸れてくれ、陣平はほっと溜め息をついた。

 間もなくして、「んじゃあ腹も膨れたことだし、そろそろ出るか」と萩原が提言したことでこの場はお開きとなる。

 店の外は少しだけ気温が下がった気がするが、それでも変わらずぬるい夜風が吹いている。


「どーする? もう一軒行くか?」
「僕はもう少し飲みたいな、明日も休みだし」
「零が行くなら僕も行くよ」
「俺も行く。今日は飲んでやる!」
「はは、どーした松田? やっぱ恋煩い?」
「うっせーっての」
「班長は?」
「俺は帰るわ、彼女に電話することになってるし」
「へいへい、さいですか」


 伊達に向かってしっしと手を振った、その時。きゃっきゃとはしゃいだ数人分の声が陣平たちの横を通る。すぐ際を通ったので、こんな会話がよく聞こえた。


「えー、もう一軒行こうよー! 何か飲み足りないもん!」
「あんたはもう飲み過ぎ! だめ!」
「あ、俺付き合いますよ、俺も飲み足りないんで」
「あんたは名前に気があるだけでしょ」
「あ、バレてました?」
「あっはは、またそんなお世辞言って」
「ねえー、苗字さん、俺お世辞じゃないんですけどー」
「ふふ、いいんだよ、気遣わなくて」
「⋯⋯いえ、そういうところがまたいいんですけどね、俺は」


 だなんて、浮かれた若者の会話。普段であれば浮かれてやがんな、と一瞥して通り過ぎるだけの会話だ。しかしそこに、懐かしい名を聞いた気がして。

 陣平は、振り返る。

 一塊になって歩く人だかりの中、視線を彷徨わせる。後ろ姿、せいぜい見えても横顔までだ。それでも、──それでも。

 陣平は、息を呑んだ。


「? 陣平ちゃん?」


 振り返ったまま微動だにしなくなった陣平に、萩原が呼びかける。その声に、通り過ぎた集団の中の一人が反応し、くるりと身体の向きを変える。

 その刹那。視線が、交錯して。

 双方が瞠目する。周りの喧騒が一気に遠ざかる。万劫とも思しき、しかし実際には数秒の沈黙が二人の間を満たす。そうしてようやく陣平は唇を僅かにだけ動かした。


「⋯⋯名前」
「⋯⋯陣平⋯⋯くん⋯⋯?」


 何年経とうが見間違うはずなどなかった。

 名前の姿が、そこにあった。