蒲公英に結わう





「こっちが諸伏ちゃんで、こっちが降谷ちゃん。どっちもイイ男だろー?」


 萩原に紹介され、諸伏と降谷は人当たりのいい笑みで軽く会釈をした。名前は「萩くんは陣平くん以外もちゃんを付けて呼ぶのね」なんてしたり顔で呟いてから、「はじめまして、苗字名前です。急にお邪魔してごめんなさい」と頭を下げた。

 その時、はらり。一房の髪が、掛かっていた耳介から落ちる。それは初めて出逢った日、桜の降る中で見た姿によく似ていた。


「で、名前ちゃんは俺らの高校の先輩。色々お世話になってさー。な、陣平ちゃん?」
「⋯⋯」
「? 陣平ちゃん?」


 ──俺らの高校の先輩。
 萩原の口から出たその言葉を受け、陣平は名前を見つめた。

 あの頃の日々が蘇る。屋上で。日々の隙間を埋め合った。記憶の中でも今なお色褪せぬ。先輩、などという言葉では、とても括れない。

 いやしかし、では何と言えばいいのかと言われるとそれもそれで分からないのだが。

 押し黙ってしまった陣平を見て、諸伏と降谷は察知した。こいつは只事じゃあないぞ、と。

 ──訳あり、か?

 そんな諸伏と降谷の目配せに、萩原がきゃぴっとウインクで返す。その瞬間、諸伏も降谷も「マジ?」と顔を明るくした。普段から口が悪くて喧嘩っ早くて機械のことしか考えていないような陣平の、色恋沙汰だ。

 俄然興味しか沸かない。

 萩原は萩原で、高校時代に上手く二人の間を取り持てなかった──萩原はこの事を萩原恋愛史上最大の失態と評していた──ことを気にしていたから、名前と陣平の不意の再会にテンション爆上がりであった。故に、きゃぴっ、きゃぴきゃぴっ、と景気よく何度もウインクをするものだから、終いにはその挙動が我に返った陣平に見つかり、脳天に手刀を食らうわけである。





 手頃な店に入る。その道中で名前はすっかり陣平たちに溶け込んでいた。降谷はともかく、諸伏の敬語なんてとうにすっかり外れている。

 嫉妬は、しなかった。

 名前の後輩にはあれほど敵意を抱いたくせに、不思議なものだ。


「名前ちゃんは何にする? ビールイケる?」
「うん! 練習中!」


 萩原の問いに元気よく答える名前に、陣平が呆れた様子で聞き返す。


「何の練習だって?」
「え、ビールだけど⋯⋯お酒飲めるようになってからだから、三年くらい? 一杯目はビール! って決めて練習してるの。でもなかなか美味しく飲めるようにならなくて⋯⋯仕事終わりの一杯は格別だ! って言えるようになりたいんだけどな」
「んな無理して飲むもんかよ⋯⋯? つーかそれはイケるとは言わねえんだよ。何だかんだまだまだお子ちゃまだなー、名前は」
「⋯⋯そんな陣平くんは相変わらずお口が悪いですねー」
「あんだと?」
「なによお」


 そんな二人のやり取りに、萩原は「懐かしいなあ」とにこにこ微笑み、諸伏と降谷は物珍しそうに笑った。

 その様子に、名前が訊ねる。


「ね、もしかして諸伏くんと降谷くんも昔馴染みなの?」
「え?」
「なんか空気が、さ、特別だよね。陣平くんと萩くんみたいに。まあ雰囲気は二組で全然違うんだけど、だから何となくそうなのかなって思って⋯⋯違ったらごめんね」


 ぱちり、ぱちり。
 息ぴったりに二度瞬いてから、諸伏と降谷は顔を見合わせた。それから降谷が「ええ」と頷く。


「僕らも幼馴染みたいなものですよ。昔から目指しているものも同じで、気が合って」
「やっぱり! ねえねえ、さっき呼ばれてたゼロっていうのは?」
「あだ名です。僕の名前、零って書くので」
「はー、なるほど。じゃあ諸伏くんのヒロは?」
「景に光でヒロミツだよ」
「はー、なるほど」
「ハハ、名前ちゃん今、俺のほうは普通だなって思っただろ。同じ『はー、なるほど』なのに全然違うし」
「あははっ」


 己の同期と順調に親交を深めていく名前に、頃合いをみて陣平が訊ねる。


「そういや名前は今何してんだ? さっき病院で働いてるっつってたけどよ」
「あ、わたしばっかり聞いちゃってた。わたしはねー、言語聴覚士してるの。さっき一緒にいたのも理学療法士とか作業療法士とか、リハビリに関わる人達だよ」
「へえ」
「その中でもわたしは子どもの言葉とかに関わる部分を担当してるんだ。勿論成人もみるけど」
「あー、向いてんじゃん。子ども好きだしな、名前」


 名前が何になりたかったのか。どこの大学に行ったのか。あの頃、そういった将来の話はしたことがなかった。

 分かたれる未来の話は、しなかった。

 名前がなりたかったものになれているのか。思い描いていた生活を送れているのか。目の前で笑っている名前からは、読み取ることが出来ない。

 三杯目の甘いカクテルに口をつけた名前を、そっと見つめる。

 名前と再会してから、今この瞬間まで。決して長くはないこの時間のなかで、陣平は確信していた。ああ、俺、全然こいつのこと好きだわ、と。

 店の天井を見上げる。仄かに橙を帯びる蛍光灯を映しながら、あれからの月日を数えてみる。

 名前のいない高校生活を一年送り、大学を出て、そして先日警察学校に入った。

 ひい、ふう、みい。

 五年だ。五年が経っている。

 あの頃、今より五年分若かった陣平は、名前を想う気持ちを認めることにさえ時間がかかった。しかしどうだろう。五年が経った今では、驚くほど素直に認めることが出来る。

 ──名前が、好きだ。

 その気持ちは、ようやく居場所を見つけたかのように陣平の心にすぽりと収まった。寸分の狂い無く。正しいかたちに。正しい息遣いで。

 収まってみると、何故この気持ちが抜け落ちたままでいられたのか不思議になるほど、陣平には不可欠なものだったように思う。

 あたたかくて、どこか苦しい。五年前に忘れてきた拍動だ。

 そんな陣平の機微をどこかで感じ取ったのか、良い感じにアルコールの回った萩原が何の気なしに問う。


「なあなあ、名前ちゃん彼氏は? いんの?」


 陣平は咄嗟に身構えてしまった。名前の後輩のあのアプローチを見る限り彼氏はいないと思われるが、それでも。きょとりと萩原を見返す名前の首が、横に振られらることを期待していた。

 期待して、ひと呼吸。固唾を呑む陣平の目の前で、名前はふるふると首を振る。その瞬間、陣平は安堵の息をついていた。


「ううん、いないよー。みんなは?」
「俺らも全員フリーだよ。あ、途中で帰った班長だけは彼女いるけど。名前ちゃん彼氏いねえなら俺とかどうよ? きっと楽しいぜー」
「あはっ、そういうところ変わらないねえ。でもそうだね、萩くんといたら絶対楽しいし、めちゃくちゃ大事にしてくれそうだし、何て言うか自己肯定感すごく上がりそうだよね」
「あ、それは俺も分かる。自分に自信を持てる感じ」
「そうそう!」


 頷き合う名前と諸伏を見て、萩原は拳で軽く自分の胸を叩く。


「オウ任せろ、名前ちゃんも諸伏ちゃんもどーんと来い! 俺が幸せにするぜ?」
「あっはは」


 夜が更けていく。この地球ほしの、ちっぽけな街の、ちっぽけな居酒屋の、ほんの片隅。笑い合う五人以外の人間には気付かれもしないこの時間が、終わらなければいいのに。

 そう、思った。