蒲公英に結わう





「名前ー」


 陣平の声だ。


「おーい名前ー!」


 陣平の声がテーブルに伏す名前にぶつかっては、ぽこりと跳ね返って落ちる。


「おいこら名前! 起ーきーろー!!」


 肩を揺すってみても頬を抓ってみても鼻を摘んでみても、その瞼が持ち上がることはない。ついに陣平は「だめだこりゃ」と手のひらを真上に向け肩を竦めた。お手上げである。なるほどこれが。名前の同僚が言っていた、「一定量超えるとすぐ寝ちゃうんだからね名前は!」なのだろう。

 すぴーっと眠りこける名前を頬杖をついて見下ろしながら、陣平はその綺麗に並んだ睫毛の生え際を視線でなぞる。


「どうすっかなー、ここに置いて帰るわけにもいかねえし、俺らは寮だしな。しゃーねえからどっか休めるとこ連れてくか」
「「「だめだ」」」


 その瞬間、陣平を除く三人から揃いも揃って否定の言葉が出て、陣平は仏頂面で口を曲げた。


「何でだよ。放っとくわけにいかねえだろ」
「何でって。俺らが気付かないとでも思ったか? 陣平ちゃんさ、名前ちゃんのことやっぱ好きなんだろ」
「⋯⋯」
「ハハ、そんな顔しても無駄だぞ松田。目ハートになってたし」
「は、はあとだ?」


 諸伏と降谷が揃って笑う。揶揄われた。決まりが悪い陣平は終始仏頂面である。


「だからさ、陣平ちゃんと二人きりにしたらあの頃溜めてたモン爆発しちまうかもしんねえだろ。再会した日に襲いでもしたら⋯⋯今度はちゃんと間違えねーで欲しいんだよ。流石の俺も今日だけじゃ名前ちゃんの気持ち分かんなかったし⋯⋯いいか陣平ちゃん、ここは慎重にだな」
「いや何を間違うんだよ、オメーじゃあるまいし」
「いやいや、どの口が言ってんだ」


 ああでもない、こうでもない。
 何とも不毛な時間だけが過ぎる。


「でもなー⋯⋯あ! じゃあ俺も一緒に行こっかな。陣平ちゃんが変なことしないよう見張れるし。これ名案じゃね?」
「はあ? どこがだよ」
「? 何でよ? 二人きりよか良くねえ?」


 否定されると思っていなかったのか、萩原は些か驚いたように目を丸くした。陣平としては名前との時間を邪魔されたくないという思いだけだったのだが、ここで降谷が口を挟む。顎に人差し指を掛け、さも思案顔である。


「いや⋯⋯お前ら二人が揃った三人は三人でまずいんじゃないか?」
「? どういうことだよ」
「いやほら、松田と萩原は気心が知れた仲な訳だし、最悪三人でってことも──」
「「気色ワリィこと言うなコラァ!」」


 陣平の投げた目にも止まらぬ速さのおしぼりが降谷の顔面にヒットする。その衝撃──なのかは定かではないが──で、名前が「ん⋯⋯」と身動ぐ。

 刹那、陣平は名前を揺すっていた。


「おい名前! せめて家だけ教えろ! 送ってやるから! じゃねえと危険だぞ!」
「いやだから危険なのは陣平ちゃん⋯⋯」


 萩原がそうツッコんだ、その時だ。名前の瞼がやおら開いて、寝ぼけ眼が陣平を捉える。そのままふにゃりと目尻が下がって、やわらかな笑みが浮かんだ。


「じんぺーくん、会いたかった⋯⋯」


 その瞬間、その場にいた誰もが息を呑んで。それから揃っておおきく瞬く。その微妙な空気の変化を感じたのか、名前は突然ばっと顔を上げた。


「はっ、わたし寝てた?! やば、危なかった⋯⋯起きれたのほんと奇跡⋯⋯」


 ふうやれやれ、といった様子で安堵の溜め息を落としている名前を、計八つの瞳が見つめる。それに気付き、名前はたじりと身を引いた。


「えっと⋯⋯ご、ごめん、なさい⋯⋯? 寝ちゃうとか引いた⋯⋯よね⋯⋯? 楽しくて少し飲み過ぎちゃった」


 さも心配そうに上目遣いで顔色を窺う名前に、降谷が答える。


「フフ、いいえ、可愛らしい寝顔でしたよ。起きられてよかったです。さ、今のうちに帰りましょう。もう遅いですし松田にちゃんと送ってもらってくださいね」
「⋯⋯? わたし別に一人で⋯⋯」
「だめだめ、一人じゃ危ねえから! 陣平ちゃんいたら大抵のことはなんとかなるからさ、持ってきな」
「え、こんな大きい子わたし持てない⋯⋯」
「オイ。俺荷物じゃねえんだけど」


 大真面目な顔で答える名前を小突いてから、俺が一番危険っつってたのはどこのどいつだよ、と陣平は萩原を睨めつける。そして問う。


「おい萩、いーのかよ? さっきと言ってること真逆だぞ」
「? 俺そんなこと言ったっけ?」
「はぁ?」


 すっとぼけた萩原は名前の手を引き立ち上がらせ、肩を抱くようにして店の外へと促す。あまりにも自然なその所作に、名前を含めたその場の誰もが違和感を覚えなかった。


「さ、ほら早く早く。眠気に負けちまう前に!」
「うん、でも──」
「気いつけて帰ってな。また飲もうぜ名前ちゃん! 連絡すっから!」
「うん、絶対また飲みたいけど⋯⋯ちょっと待っ──」
「タクシーでいいよな、転んでも危ないし。じゃー陣平ちゃん! 頼んだぞー」


 路肩に停まっているタクシーを諸伏が捕まえる。萩原が名前をぽすっと後部座席に座らせて、降谷が陣平を同じく後部座席に押し込んだ。

 名前がきちんと奥側に座れていなかったものだから、陣平は半ば名前に折り重なるようなかたちになった。

 不意に、ふわりと。名前が香る。

 鼻孔を擽る芳しさに目眩を覚えつつ「おいオメーら──」と身を乗り出した陣平に、萩原が小声で耳打ちをする。


「名前ちゃんのこと頼んだぜ、ちゃーんと送り届けろよ? アレだったら外泊届けちょろまかしておいてやるからごゆっくりー。まあその辺の小細工は俺たちに任せな。あ、陣平ちゃんちゃんとゴム持ってっか?」


 その瞬間、陣平のこめかみ辺りでブチッと何かが切れた音がした。


「オメーと一緒にすんなバカ!!」


 こうして陣平と萩原がわいわいしている傍らで、諸伏と降谷は反対側のドアに回り込み名前に声を掛けていた。


「名前ちゃんまたね」
「うん、またね、すごく楽しかった! ⋯⋯あっ、まって、連絡先聞いてない」
「大丈夫、あとで松田から聞いて」
「えっ、まっ」
「じゃ、運転手さん、お願いしまーす」
「ちょっとー! 誰かわたしの話聞いてよ〜〜〜!」


 まだまだ何かを言いたそうな名前と陣平を乗せて、タクシーは颯爽と夜の繁華街を抜けていく。それを見送った三人の顔に浮かんでいるのは、謎の達成感と充足感、加えて少しの親心、そして多大なる好奇心だった。


「ふー、行った行った」
「我ながらナイスコンビネーションだったな。けどちょっとやり過ぎたか?」
「いいや、あのくらいやらねえと」
「上手くいくだろうか、あの二人」
「んー⋯⋯ありゃあ名前ちゃんも脈ありだと思うけど、何といっても陣平ちゃんだしなあ⋯⋯名前ちゃんがそのへんどう変わってるか⋯⋯あーもう早く明日になって話聞きたいぜ」
「ハハ、完全に野次馬だよな」
「いーじゃん、背中押してやったんだからさ。いやー、けどやっぱ強引だったか⋯⋯?」


 どこか遠くを見遣った萩原が呟く。笑い合う三人の声が、夜の街に溶け入った。