蒲公英に結わう





 ネオンを抜け、郊外へと続く道をタクシーが行く。名前が告げた住所へ向かうその車体は、静かに二人を運んでいた。

 
「お前、家出たんだな」
「うん」
「弟は?」
「ふふ、覚えててくれたんだね。我が弟、なんかすっごいお勉強できて⋯⋯偏差値高い中学校行ったの。この春からね、親戚の家に下宿って形で。わたしの方が子離れできなくて寂しくて⋯⋯姉弟なのに子離れっていうのも変だけど。それで⋯⋯いや、だからって言うのかな? わたしもこれを機に一人暮らし始めたんだ。お父さんも再婚しそうだし、ちょうどよかった」
「⋯⋯そーか」
「お父さんね、わたしに聞くの。俺が再婚するの、嫌か? って。そんなの⋯⋯お母さんのことは今でも大切に想ってるの知ってるし、お父さんが幸せでいてくれるなら⋯⋯」
「⋯⋯名前」

 
 とすり。肩に名前の頭が乗る。先程覚えた名前の匂いが直に流れ込んできて、酔いが一気に醒めたような、寧ろ一気に酔いが回ったような気分に襲われる。そんな覚束ない頭で思う。

 複雑なんだろうな、と。

 最愛を亡くした。けれど、自分の生は続いていく。最愛は最愛のまま。自分だけが歳を重ねる人生。

 陣平には恐らく、──想像さえ出来ていない。名前はその胸に。行き場のない想いを、いったいどれほど抱えているのだろう。

 
「⋯⋯名前」
「⋯⋯」
「⋯⋯名前?」
「⋯⋯ぐう」
「ってまた寝てんのかよ! 家着いたら起きるんだろーな?!」

 
 いつの間にか瞼を閉していた名前を見下ろす。時折街灯が名前を照らしては、一瞬で程よい闇へと紛れていく。

 肩に乗った名前の重みを、陣平は無言で感じていた。





「⋯⋯自分で歩けこのヤロ〜〜〜」

 
 結局自宅に着いても起きない名前を背負い、陣平は背中に向かって溢していた。ポケットには名前の鞄から拝借した鍵が入っている。

 
「てか部屋どこだよ⋯⋯ここか? こっちか? 部屋番まで聞いとくんだったぜ⋯⋯おい名前」

 
 背負い直すついでに背を揺する。肩に凭れた名前の口元から、「⋯⋯そっち、その茶色の」とごにょごにょ聞こえ、陣平はばっと顔を上げる。

 
「分かった茶色だな⋯⋯って全部茶色なんだよ! 無駄に小洒落た木目調の! コラ!」

 
 こんなやり取りを幾度重ねただろう。よくやく名前の部屋を探し当て、その鍵が無事に回った時には陣平から酷く深い溜め息が落ちた。

 ガチャリ、ドアノブが回って。
 次の瞬間には触れたことのない空間が陣平を包む。

 異性の匂いだった。
 刹那包まれたその匂いは名前から香っているものと同じで、仄かなくせにやけにくらくらと響く。そのせいで、意識の外に追いやっていた背で眠る名前の生々しい感触をついぞ理解してしまう。

 ぐ、と唇を結び自分を諌める。萩原に「オメーと一緒にすんなバカ!」と啖呵を切っているのだ。早々に負けるわけにはいかない。

 見回す室内は1LDK。一人暮らしには程よいサイズのその部屋は、初見でもすぐに寝室が分かった。

 背からそっと下ろし、ベッドに横たえる。薄っすらと名前の瞼が開いたが、意識は依然として寝ているようだ。「着いたぜ。ここまで来たらもう起きなくていいぞ、寝てろ」とちいさく話しかけ、そっと頭を撫でる。

 撫でて、しまって。

 指先に触れた名前の髪質を感じ取ってから、無意識だったと自覚する。慌てて手を引き、その手のひらを握り締める。僅かな一瞬でも気を抜けばタガが外れてしまいそうだ。一刻も早く。ここを離れなければ。


「そんじゃ俺は帰るからな。鍵はポストに入れとくぜ」

 
 そう告げ離れようとした陣平の身体が、くん、という反動と共に止まる。振り返る。そして陣平は眉を寄せた。

 身を翻した陣平の服の裾を。
 名前がきゅっと握っていたからだ。

 
「じんぺ⋯⋯くん、どこ行くの、こっち、こっち来て」
「⋯⋯ったく、俺がどんな気持ちでいると思って⋯⋯帰るんだよ俺は。俺も眠いし」
「じゃあ一緒に寝よ〜〜」
「ハァ?! 襲われてえのかオメーは!」
「だって、寂しい」


 ぽつり。部屋に灯ったその切ない響きに、陣平は息を呑む。

 頼むから。そんな声音で。そんな事を言わないでくれ。必死に堰き止めている心が、溢れてしまうではないか。溢れて、零れて、名前を飲み込んでしまう。


「せっかくまた会えたのに、会えなくなっちゃうの、寂しいよ⋯⋯」
「⋯⋯バカヤロ」

 
 名前の頬を伝った濡れた粒を、陣平の親指が少し強めに拭う。

 会えなくなるわけではない。あの頃とは違う。お互い大人になった。今ならきっと連絡も取り合えるし、都合をつけて会うことだって出来る。きっと、出来る。

 でも、こんなの。
 
 濡れた自分の親指を握りしめる。名前の涙の一滴すら落としたくないと思ってしまった。


「誰が帰れるかよ⋯⋯」


 陣平は名前の身体を力いっぱい抱き締める。埋まらなかった最後の何かを埋めるように、力いっぱいに。