蒲公英に結わう





 夢を、見ていた。

 
「名前、無理だよ。別れよう」


 そう言ったのは、大学生になって初めて付き合った人だった。


「この年齢でさ、いつまでも彼女とセックス出来ねーとか⋯⋯流石にもう無理だわ」


 そう言ったのは、二番目に付き合った人だった。浮気をしていた。理由を聞いたら、こう言った。

 好きだった。人間として、ちゃんと好きだった。だから交際をしていた。その気持ちに嘘はなかった。なかったのだけれど。

 どうしても出来なかった。何故か身体が拒否してしまった。「好きだけどセックスは出来ないなんて、俺には分からないよ」なんて、そんな台詞を言わせてしまった。傷付けた。付き合ってはいけなかった。

 人として好き、と。
 切ないほど恋い焦がれる、は。

 全くの別物だったのだ。

 それに気付かず、二人も傷付けた。そうでもしなければ気付けなかった自分の愚かさを恨んだ。恋人となった彼らの向こうに、名前はいつも、──一人の姿を見ていたのだ。

 逃げられないのだと思った。忘れられないうちは。いや、忘れられなくとも心底“好きだ”と思える人に出逢えるまでは。

 ぐずりと疼く感情だけが懺悔のような気がしていた。大切だったはずの人を二人も傷付けた。その、懺悔。

 
「⋯⋯あれは、確かに恋だったな⋯⋯」
 
 
 名前を呟きそうになっては、既で飲み込む。それを何度も繰り返した。彼の名を口にしたら、屋上で重ねた最後の決意が瓦解してしまいそうだった。守り抜きたかった。あの時、離れると決めたその決意は間違ってはいなかったのだと。

 懺悔はしても後悔はしたくなかった。自ら手放した恋を思い出の中にきちんと飾って、わたしはちゃんと楽しく生きているよ、と胸を張りたかった。

 でなければ、なんのために。涙を流したのか分からない。




 
 ふつりと景色が薄くなり、そして遠ざかる。それと引き換えに自分の感覚が戻ってきて、名前は重たい瞼を持ち上げた。

 ──眩しい。

 レースのカーテンから存分に太陽が注ぎ込んでいる。いつもは遮光カーテンがあるはずなのに。カーテンを閉め忘れて眠ることなんてあるだろうか。と、まだ九割方目醒めていない頭で考える。

 その時不意に首の下に普段はない感触を覚え、百八十度首を巡らせる。巡らせて、名前は瞠目した。
   
 陣平、だった。
 
 陣平の片腕に頭を預けているのだと認識するのとほぼ時を同じくして、まるで徹夜明けですとでもいうような目付きをした陣平と目が合って、「はよ」と一言。
 
 その瞬間、名前は「きゃあーーー!」と叫んでいた。そして瞬時に思い出す。昨夜のこと。途中から断片的な記憶。自分の口から出た言葉。それら全てを思い出し、今度は天を仰ぐ心地で額を押さえる。

 完全なる失態である。
 
 
「朝から騒がしいな、静かに起きれねえのかオメーは⋯⋯」
「うわあ、どうしよう、本物だ」
「はあ?」
「と、取り敢えず避けるね、重かったでしょ、ごめんね」
「いやいーよ、このままで」
「でも、」
「俺が良いっつってんだからいーの」
「⋯⋯はい」
「つーか何だよ、本物って」
「⋯⋯昨日から幸せ過ぎてまだ夢でも見てるんじゃないかなって⋯⋯あいてて」
「夢なんかで済まされて堪るかってんだ」


 言うや否や陣平に頬を抓られる。なるほどこの痛み。夢ではない。

 陣平の反応は最もだ。むしろもっと怒っていて良い。なんせ飲んでいる最中に意識を飛ばし、タクシーで送らせるに飽き足らずおぶらせ、あまつさえ「一緒に寝よ〜〜〜」だ。しかもきちんとベッドに引き摺り込んでいる。

 慙愧にたえない。

 己の蛮行を恥じ入りながら、名前は消え入りそうに問う。

 
「⋯⋯その、わたし記憶が飛ぶタイプではないんだけど、念の為確認させて⋯⋯陣平くんのこと襲っちゃったりしてない? ちゃんと未遂?」


 不安から自然と上目遣いになってしまった名前を、陣平は面食らったようにしばたいて見つめる。それから心底可笑しそうに口角を上げた。
 
 
「ぷっくく、台詞が逆なんだよなあ」

 
 くしゃり。陣平のおおきな手が、名前の頭を撫でる。些か乱暴さが混ざったその手つきに、そして腕枕で抱き締められ続けている現状に、名前の心臓はどうしようもなく逸った。
 
 
「安心しろ、何もしてねえよ。なんせお前ぐーすか寝ちまうし。まあキスのひとつやふたつはしてやったけど」
「?!」
「んだよ、いーだろそれくらい。それとも襲われた方がよかったか?」
「いや⋯⋯ていうかやっぱ近い⋯⋯」
「はは、今更っつーか相変わらずっつーか」
 

 名前を撫でる無骨な手は止む気配を見せない。少しずつ穏やかになっていく撫で方からは、どんなに鈍感な人間でも分かる程の想いが溢れていた。それは紛れもなく、“愛おしさ”とでも名が付く感情だ。

 その心地よさを噛み締めながら、名前は口を開く。
 

「陣平くんもしかして⋯⋯あんまり寝てない?」
「⋯⋯あのなあ。どんな神経してたらこの状況で寝れんだよ?」


 陣平は悶々と滾る胸中──だけではなく、当然のように腰元で存在を増しているモノがあるわけなのだが──を存分に持て余していた。

 今だってそうだ。
 目が醒めてなお、顔を真っ赤にしながらも大人しく陣平の腕の中に収まっているくらいなら。今すぐにでも名前をどうにかしてしまいたい。

 そんな欲望をずっと抑え込んでいる。

 いつまでこの我慢続けられんだろうな、と思い続け、結局手を出さずに夜を越した偉業は全世界に褒め称えられなければ割に合わないし、賞金のひとつやふたつでも送られなければ気も済まない。

 それ程の忍耐の根源は、理性というよりも最早ただの意地だった。

 名前の口から想いを聞くまでは。
 自分の口から想いを伝えるまでは。

 いや、高校時代の前科がある故、今回は拗れてしまう前に伝えようと思ったのだ。昨夜名前の身体を抱き締めたその瞬間に、そう誓っていた。それなのに。
 
 人の気も知らずに名前が寝たのが悪い。ぐっすりと朝まで。可愛くて気の抜ける寝顔で。──名前が、悪い。その一言に尽きる。

 言う。今度こそ言う。名前が好きだと。
 
 陣平が再び意を決しかけた、そんな折だった。
 

「あー! もう! やっぱりだめ!」


 突然名前が起き上がる。陣平の腕を抜け出てベッドの上にしゃがむようにして膝を折り畳み、陣平を見下ろす。訳もなく「だめ」と言われ、陣平はむっと唇を結んだ。

  
「⋯⋯何が」
「こんな、酔った流れみたいなの、やっぱだめ」
「は⋯⋯ちょっと待て、何お前、何言い出す気だよ」


 陣平を得体の知れない焦燥が包む。
 マジで勘弁してくれ。まさか「なかったことにしてくれ」なんて言い出す気じゃねえだろうな?! と心中ちっとも穏やかではない。

 どれもこれもよく聞く話だ。ワンナイト──陣平たちは一線を越えてはいないが──の翌日。酔った勢いだから。そんなつもりじゃなかった。なかったことにしよう。忘れてくれ。なんて。欲に抗えず生じてしまった過ちを屠るための常套句。まさか名前までそんなことを。

 なんて憂慮は杞憂に終わるわけなのだが、兎にも角にも名前の答えが返ってくるまで、陣平は固唾を呑む羽目になるのである。


「ちょっとまずは体裁を整えます! それから話聞いてほしいの」
「このまま話したって変わりゃしねえだろーが⋯⋯それがお前のケジメになんのか?」
「そうケジメ! になる!」
「よし分かった。もうあんなすれ違いはごめんだからな。そうと決まればさっさと整えるぞ、体裁とやら」


 言いながら陣平も身体を起こす。名前は気合を入れるようにして胸の前で拳を握った。
 
 
「わたし顔洗ってくる! メイクもそのままだったし⋯⋯そのあと朝ごはん作るから、陣平くんはその間にお風呂使ってね」
「ん、借りるわ」
「着替えは⋯⋯わたしの大きめのシャツとかなら入るかな⋯⋯」
「おう、千切れてもいいなら」
「ふふ、だめじゃん」
「いーよこのままの服で。気にしたら負けだ」
「分かった。ね、朝ごはんはパンとご飯どっち派?」
「⋯⋯米食いてえかな」
「二日酔いは? ありそう?」
「いや、大丈夫。お前は?」
「少しだけ。わたしも大丈夫」
「よし。⋯⋯そんじゃあ、一旦解散! 急げよ! 俺、気ぃ長くねえんだからな!」
「らじゃ!」


 洗面所に駈けていく名前の姿を、笑いながら見送る。まったく、しっかりしてるんだかただの阿呆なんだか分かったものじゃない。