蒲公英に結わう





 名前の用意してくれたタオルを持って浴室へと向かう。入れ替わるようにして名前はぱたぱたと台所に入っていった。

 家とも違う。寮とも違う。女の浴室なのだとひと目で分かるその場所で、陣平は熱い湯に浸かっていた。「ご飯の準備してる間暇でしょ。お風呂でも入ってて」と短時間で湯を張ってくれていたのだ。

 俺急げっつったよな? とか。人の家に転がり込んでおいて朝風呂入れってか? とか。言いたい事はあるのだが、「本日の入浴剤は日本の名湯シリーズからこちらのにごり湯!」なんて楽しそうに言われては、力も抜けてしまうというものである。

 力が抜けて。逸る心も自然と凪ぐ。

 暫くそうして天井を眺め気持ちを纏める。そうするうちにたっぷりと身体もあたたまってしまって、「⋯⋯ほんと、何だかなあ」と口にして笑っていた。
 
 何でも使って良いっつってたしな、と遠慮なく頭のてっぺんから爪先まで洗う。洗いたての身体からは、自分ではない匂いがした。

 

 陣平が風呂を使用している間、名前は簡単に朝食を用意していた。昨日の日中に買い出しに行っておいて良かった。それなりの物は作ることが出来そうだ。

 炊きたての白米。卵焼き。ほうれん草のおひたし。紅鮭。そして味噌汁。簡素だが、酒にヘタれた胃には調度良いだろう。

 身なりを整えて。お腹を整えて。心を整えて。そしてきちんと。今度こそ伝えるのだ。

 陣平が好きだと。
 
 気合を入れて鍋で味噌を溶いていると、タオルでくしゃくしゃと髪を拭いた陣平が「すっかり満喫しちまったぜ」とやって来る。水分を含んだ髪は普段よりも癖が際立っていて、名前は思わず「ふふ、可愛い」と笑った。

 
「うおー⋯⋯いい匂い。飯食う前に話したかったけど、何か一気に腹減ったわ」
「先に食べようよ。腹が減っては戦は出来ないんだよ」
「何、俺これからお前と戦レベルの話すんの?」
「あははっ。たーーんと食べて備えてね」


 卵焼きを切る。ほうれん草には鰹節を乗せ、椀に味噌汁を装うとしていると、陣平にじいっと見られていることに気付く。

 
「? なあに?」 
「なあ名前、お前それすっぴん?」


 まるで「今日の飯なに?」くらいのテンションで聞かれ、名前はひっくり返りそうになりながら慌てて顔を背けた。

 
「ひい、ごめんなさい、すっぴんです、お化粧する時間なくて」
「? いーじゃん。あの頃みたいにあどけなくて可愛いけど」
「⋯⋯っ」


 持っていた椀を落っことしそうになった。
 そんなナチュラルに。しかも陣平の口から。可愛い、だなんて。何か。アレか。二日酔いではないと言っていたが、もしかして未だ現在進行系で酔ってでもいるのか。

 などと穿ってはみるものの、如何せん貰えた言葉の嬉しさが大き過ぎる。

 
「⋯⋯も」
「あん?」
「もう一回お願いします⋯⋯」
「は⋯⋯?」
「もう一回、今の言って?」


 今の⋯⋯? と首を傾げた陣平は、どうやらその頭の中で自分の台詞を反芻しているらしい。そして何かに気が付いた直後、決まりが悪そうに後頭部を掻く。陣平くんもこんな反応するんだなあ、と微笑ましく眺めていると、仏頂面をした陣平に鼻を摘まれる。

 これも最早見慣れた光景となりつつある。

 
「さっきの一回だけだバーカ!」
「い、いひゃい⋯⋯」


 そして相変わらず痛い。

 陣平を宥め、朝食を並べたローテーブルを囲む。陣平は関心するほどの食べっぷりを見せてくれ、作った名前の顔を綻ばせた。




 
 朝の光がたっぷりと注ぐ窓辺。三段構えの小振りなチェストの上を眺める陣平に気付き、名前は皿洗いをしながら「あ、それ?」と声を掛けた。

 チェストの上には、口の広い透明なコップを花瓶に見立て、幾本かのたんぽぽが花開いている。

 
「一昨日リハビリに通ってる子がくれたの。来る途中で摘んだんだーって」
「ふうん。そういや名前が働いてる病院ってどこなんだ?」
「米花中央病院だよー。近くに公園があるんだけど、そこで摘んでくれたんだって。こうして摘んだのってすぐ枯れちゃうんだけど、少しでも⋯⋯ね」

 
 その刹那、陣平の脳裏を過ぎった映像があった。それは昨夜、外出際に思い出しかけた“何か”と同じ感覚で、陣平は人知れず目を丸くする。

 
「──⋯⋯」

 
 そうだ。あの時だ。
 思い出すのは六年前。春休みを終え学年がひとつ上がった始業式の日のことだ。

 屋上のフェンスに指を掛け春の景色を眺めていた名前が、ただ寝転びぼーっと空を仰いでいた陣平を呼んだ。
 

「陣平くん見て! たんぽぽ!」
「あー?」
「ここから見えるあの公園、たんぽぽすごい咲いてるよ。一面黄色できれい⋯⋯今度弟と遊びに行ってみよー」


 この時陣平は、身体を起こすことはしなかった。ただ、空から名前へと視線を移しただけだった。一面に咲き誇る花よりも。それを映す名前を見ていたほうがよかった。弟の喜ぶ姿を想像し目を細める名前を、見ていたほうがよかった。

 昨晩感じた、たんぽぽが揺れるようなあの切なさは。この時の感覚だったのだ。

 記憶とは本当に、厄介なものだ。

 そうするうち皿洗いを終えた名前が隣に並ぶ。陽の光を反射した髪が淡く光って、名前をかたどっている。

  
「んで? いつ整うんだよ、体裁とやらは」
「⋯⋯、いま」


 名前の身体が陣平に向く。陣平を見上げる名前は既に頬を染めていて、思わずその頬を指先でなぞり、そのまま手を添える。
 

「⋯⋯名前。めちゃくちゃ遠回りしちまったけど、俺と──」


 口にしかけて、はたりと動きを止める。
 
 ⋯⋯何て言うんだ?
 付き合って下さい? いや、お願いするのも何だかな。付き合え? は萩に殴られそうだし。付き合おうぜ? キザ過ぎるか。付き合うか? なんて聞くもんでもねえしな。

 時間はあったのだから、気概ばかりを整えるのではなく言うべき言葉の詳細まで考えておけばよかったものを。しかし殊の外にごり湯を満喫してしまったのだから仕方がない。
 
 暫く考えてはみたもののしっりくる言葉が見つからず、陣平は実直に胸の内を吐露する。


「名前。俺はもう、お前にどこにも行かねえでほしい。俺んとこにいてほしい。俺の隣で笑ってやが、れ⋯⋯」


 言い終わる前に名前の瞳でぷくりと雫が盛り上がる。それは瞬く間に溢れ、頬に添えていた陣平の指先を濡らした。
 
 
「って言ったそばから泣くなよ」
「⋯⋯っじんぺ、くん、大好き。大好きなの⋯⋯わたし、忘れられなかっ⋯⋯」


 目元を覆い嗚咽混じりに言葉を継ぐ名前を引き寄せ、目一杯に抱き締める。

 再会してから丸一日と経っていない。
 この五年でお互い変わっていることだろう。寮生活だってある。仕事だってある。離れることしか選べなかったあの時と状況はさして変わっていないのかもしれない。

 それでも。もう一度離れることなど出来るはずがなかった。


「名前⋯⋯好きだ。ちょっと自分が馬鹿なんじゃねえかってくらい、お前が好き」
「⋯⋯っ」
「あ、言っとくけど萩みてえにむず痒いことポンポン言えねえから、これは今日だけの特別だからな。言ったこと忘れんなよ」
「ふふ、忘れません」


 泣きながら、笑いながら、名前はしっかりと頷く。忘れない。例えこの先何があろうとも、どんなに歳を重ねようとも。

 陣平との日々を、忘れはしない。


「⋯⋯今度こそ離れんじゃねえぞ」
「⋯⋯うん」


 窓を通り、包み込むように光が溜まる。人差し指に顎を掬われ上向いた名前の唇に、陣平の唇が齧り付くように重なる。水面を揺蕩う蒲公英だけが、僅かに動いた。


忘れない、って言ったから