夢みたいな話をしよう





「あ! 陣平ちゃんだ、おはよー!」


 入学して二日目のことだった。
 昼休み、購買に行こうと廊下を歩いていた陣平の背中に、覚えたばかりの声がぶつかる。陣平は歩みを止め振り返った。その仏頂面のなんとまあ酷いこと、といった感じであるが、名前は意に介した様子もなくにこにこと手を振っている。


「あ゙? なんつった今」
「陣平ちゃん。君の名前でしょ」
「⋯⋯俺をその呼び方で呼んでいいのは萩だけだ」
「萩⋯⋯萩原くん? ⋯⋯はっ、二人ってそういう関係なの?!」
「はあ?!?!」


 声を荒げた陣平には構わず、名前は顎に手を当てて続ける。


「そっか、陣平ちゃんはだめなのか⋯⋯じゃあ陣平くんでいっかあ」
「いっかあって何だよ⋯⋯つーかなんで名前なわけ」
「なんでって、苗字覚えてないもん」


 思い返す。桜の散る、入学式の日。
 確かにフルネームを名乗ったのは最初だけで、例えば萩原のように改めて自己紹介をしたりでもしなければ、新入生の名前などいちいち記憶に残らないだろう。陣平の場合はその後にひと騒動があったわけだが、その際にも「松田」という単語は一度も出なかった。萩原が何度も「陣平ちゃん」と呼んだから、それが記憶に残ったのだろう。

 ──まあ、それでもいいか。と思う。

 思ってから、陣平は首を傾げた。なぜ自分は今、名前で呼ばれることを良しと思ったのだろう。


「ていうか陣平くん、わたしに敬語は使わないのね。別にいいけど」
「新入生に針刺すようなヤツに敬語なんて使うわけねえだろ」
「ん、ぐ、あれはホントにごめん⋯⋯」


 しゅんと項垂れた名前のつむじに、陣平は「んで?」と声を落とす。


「俺の昼寝場所は?」
「わ、あれ本気だったの」
「ったりめーだろ」
「⋯⋯もう、男の子のくせにちょっとちっくんされたくらいで」
「ああ? なんだって?」
「なによぉ、⋯⋯いたっ、たたたっ」


 鼻の頭をむぎゅりと摘まれた名前がちいさく悲鳴を上げ、「暴力はんたい〜〜〜!」と抵抗する。その顔が随分と抜けていて、陣平は「ハハ、すっげー間抜け面」とけらけら笑った。

 数秒そうして笑ってから、ようやく手が離れる。鼻頭を労るように擦る名前に、陣平は再度問う。


「なあ、ねえのかよ? 昼寝場所」
「ないよー、そんな場所」
「じゃあ校内案内してくれよ、自分で探すから」
「⋯⋯うん、それくらいなら」


 こうして二人の奇妙な校内散策が始まった。

 手初めに購買で昼食を買う。胸にメロンパンを抱えた名前と、既に焼きそばパンに齧り付いている陣平。すれ違う生徒からは不思議そうな視線がちらちらと向けられる。


「ちょっと、歩きながら食べないでよ」
「いーだろ、腹減ってんだよ」
「なんか食べたり寝たり忙しいね」
「うるせえな、育ち盛りナメんな。つーか何もねえなこの学校、教室ばっかじゃねえか」
「いや、それが学校ですから⋯⋯」


 そんな会話をしながら差し掛かった三階の奥。「立入禁止」と書かれた屋上への入り口に、ふと、名前の視線が向く。僅かひと瞬き分のその視線の動きを、陣平は見逃さなかった。


「何?」
「え⋯⋯な、何が?」
「そこ。入れんの?」
「⋯⋯ううん。立入禁止って書いてあるでしょ」
「いーや、その変なは絶対入れるね!」
「は、入れない! 入れないです!」
「あ! お前生徒会だからなんか分かんねえけど入れんだろ!」


 とすん、と音が鳴る。

 にじり寄る陣平に追い詰められ、名前の背が壁に当たった音だ。メロンパンを抱えたまま、名前はあわあわと陣平を見上げる。そして思う。

 か、顔、近⋯⋯!

 出逢ってからはじめてこんなに近くで見たが、その整った顔立ちが一層際立つ。加えてふわふわと動く癖毛に、自信を纏った悪戯な口元。笑顔にはまだあどけなさが残っていて、胸がきゅうと反応してしまう。

 頬に熱が集まる。身体が熱い。妙に意識してしまって、名前はどぎまぎと視線を逸らしながら口を開く。


「あの、陣平くん」
「あ? 白状する気になったか?」
「ち、」
「ち?」
「⋯⋯近いです⋯⋯」


 顔を赤に染め俯く名前を見て、陣平の鳩尾がずくりと疼く。「へえ」と弧を描いたのは陣平の唇で、次の瞬間には更に一歩、陣平が名前に歩み寄っていた。


「じゃあ口割るまで動かねえわ」
「ちょ、だから近いって⋯⋯」
「あんた高校生にもなって意外とウブなのなー、男の経験ねえの?」
「あっ、あるわけないでしょ!」


 ふうん、と呟いた陣平が、「で、どうなのよ? 入れんの?」と続ける。名前は陣平を見上げては視線を逸らし、見上げては逸らし、を数度繰り返し、そしてついに観念した。


「入れる、から⋯⋯だから離れて」
「なーんだほれ見ろ入れんじゃねえか」
「もう⋯⋯わたしの秘密の憩いの場所だったのに」


 生徒会ではない。
 生徒会というよりは、名前が個人的にここに入り浸っているのだ。生徒会の特権を利用して。


「ここってあんたがいないと入れねえのか?」
「うん、そうだね、今使ってるのはわたしだけだね」
「じゃあ決まりだな」


 まただ。また、陣平の唇が意地悪に笑う。それを見て名前はちいさく零した。


「⋯⋯すごくすごく嫌な予感がする」
「いーや、むしろ光栄なことだぜ? 俺の昼寝に付き合えるなんてよ。そう思うだろ?」


 これ以上近づきようがないと思っていた陣平との距離が、より一層縮まる。名前はついに音を上げた。


「わかった、わかったから⋯⋯お願いだから離れて、そろそろ無理⋯⋯」
「ははっ、揶揄い甲斐のあるヤツ」
「⋯⋯意地悪。年上こんなに揶揄うなんて」


 しかし、何故だか──憎めない。

 そう思ってから、名前は酷く狼狽えた。

 ここは名前の憩いの場だった。
 学校は人並みに好きではあるが、ふとした拍子に思うのだ。なんでわたしはここにいるんだっけ、と。がやがやとした教室の声。同じ服を纏ったクラスメイト。きっちりと区切られた時間。決められた学び。

 そういうものに、ふと、息が詰まる。

 だから、屋上は憩いの場だった。
 一人になれる場所。何にも区切られていない空。風の匂い。移ろう季節。

 ここは、息がつけた。

 その場所に他人が入り浸る、かもしれないなんて。言葉だけを並べてみれば嫌悪感を覚えて然るべき、と思うのに、名前の心は特段嫌がってはいないのだ。

 その乖離に、名前は狼狽えた。

 そんな名前を他所に、陣平はまた、笑顔を見せる。今度は年相応の。幼さの残る笑顔だった。


「これからよろしくな、名前センパイ」