「もしもーし?」
「あ、苗字さん! 良かった。昨日帰ってから全然返事ないので心配になって」
「えっ、ごめん! 何か連絡くれてた? 全然携帯見てなくて」
「全然って⋯⋯具合でも悪いんですか?」
長時間携帯を見ていなかったのはひとえに陣平と過ごしていたからなのだが、そうとは知らぬ後輩は、体調不良で携帯を見る元気がないとでも思ったのだろう。もともと名前はこまめに携帯をチェックするタイプではないのだが、入職したての後輩はそれをまだ知らない。
「ううん、大丈夫、元気だよー。心配掛けてごめんね」
「いえ、それなら良かったです。あの、昨日ってあの後──」
後輩が何かを問いかけた、その時だった。
「名前ー、そういや最寄りの駅ってどこ?」
部屋に戻ってきた陣平が名前を呼んだ。不意の呼びかけに、電話に集中していた名前の肩がびくりと跳ねる。
「あ、電話中だったのか、悪い」
「ううん、こっちこそ。ちょっと待っててね」
──異性との電話、か。
名前は考える。これまで付き合ってきた人物に、名前は嫉妬というものをしたことがなかった。今となってはそれも恋との相違点としてはメジャーだったのだろうと分かるのだが、そういうわけでつまりはこういうことも初体験なわけである。
もし陣平が名前の知らぬ女の子と電話をしていたら。そう想像するだけで、鳩尾がモヤつく。それぞれにそれぞれの生活があるのだから気にしても仕方のない事など五万とあるのだが、簡単に割り切れないのが恋愛であるらしい。
そうか。陣平相手だとこういう気持ちが沸き起こるものなのか。
気にする気にしない、嫉妬するしないは各人に依るところだろうが、陣平はどう思うタイプの人間なのだろう。
そして今の陣平の声は後輩に聞こえただろうか。飲み会の次の日にまだ一緒にいる、だなんて。様々な憶測を呼びそうな事態である。
こうして一気に考えが巡った上、ひとつとして答えを出せなかった名前の脳は、取り敢えず今は電話を切る、という強行策を推した。
「苗字さん、今の声って⋯⋯?」
「あっ、明日話すね! 今日はこれで! また明日ね!」
返事を待たずに電話を切る。切ってから思う。悪いことをしてしまった。明日謝らなければ。そして誤解を生む前に──何の誤解かは甚だ不明だが──説明をしなければ。
「もういいのか?」
「うん。わたしも駅まで一緒に行くね」
「いーよ、場所だけ教えてくれれば」
「やだなあ、わたしが行きたいの。⋯⋯離れるの、なんだか惜しくって⋯⋯わっ」
不意に手を引かれて。
陣平の腕に包まれる。
次の瞬間にはキスの雨が降っていた。
食べられる、と思うほどに求められる口付けは酷く扇情的で、名前の心が悲鳴を上げる。掻き抱くように支えられる後頭部。腕を回すと応えるように撫でてくれる手。幾度も角度を変えては触れ合う唇。どれもが名前を貪る。
「口開けろって」
「ん⋯⋯っ」
いつか覚えた感覚だ。
口内で絡む舌は、五年前に覚えたもの。しかしあの頃よりもどこか大人の味がするのは、昨夜見た煙草の所以だろうか。
苦しい。息の出入り口が塞がって。身体を強く抱きしめられて。幸せが容易く満たってしまって。
苦しい。
「⋯⋯っ、はぁ、」
漸く唇が離れた時には、息はすっかり上がってしまっていた。苦しさからか。欲情からか。自分では掴みきれない心の動きに、気付けば瞳が潤んでいる。
「っ、なんつー顔すんだよお前⋯⋯帰れなくなんだろ」
「⋯⋯寂しくなること言わないでよ。帰らないでって言っちゃいそうになるじゃない」
「はは、言ってるけどな」
「ふふ、言っちゃったけど」
困ったように笑んだ名前にもう一度キスを落としてから、陣平は名前の身体をそっと離した。
「次会えるまでいい子で待ってろよ」
「うん」
名残惜しさを消せぬまま、二人で家を出る。
最寄りの駅まではゆっくり歩いて十分といったところか。遠いわけではないのだが、近いと胸を張る距離でもない。何とも微妙な距離を、ゆっくりと辿る。纏う空気は生ぬるい春の陽気だ。部屋に飾ったたんぽぽと同じ黄色が、道端で揺れている。
その道中、名前の視線はポケットに仕舞われた陣平の手に向けられていた。その心はただひとつ。
手を、繋ぎたい⋯⋯!
それだけだった。
しかしここでも名前は迷う。手を繋ぐなんて。まだ早いだろうか。がっつき過ぎだろうか。初めてはやはりデートの時だろうか。いやそもそも陣平が誰かと手を繋いで歩く場面が申し訳ないほどに想像出来ない。
べたべたされるの嫌いそうすぎる。
そうして片手が宙を舞い続けること暫し。不意に陣平が名前を見下ろすものだから、名前はババッと手を背後に隠した。
「なあ」
「はいっ?!」
「さっきの電話って男?」
「あ⋯⋯そう、ほら昨日一緒にいた後輩の」
「⋯⋯あいつか」
その刹那、ぴり、と空気が震えた気がして。そして陣平の周囲に何かしらの険悪なオーラが立ち昇っている気がして、「じ、陣平くん? なんか出てるよ⋯⋯?」と陣平の周囲の空気を払ってみる。
そんな名前の挙動には構わず、不機嫌な表情の陣平が名前を見据える。
「名前。気を付けろよ」
「⋯⋯?」
「いつか何かしてくるぞ、アレ」
「⋯⋯え? あれ⋯⋯って後輩のこと?」
「いいか? 油断すんなよ?」
「え、何、どういうこと?」
その返事は貰えぬまま、気付けば駅に着いていた。「は〜〜〜班長が彼女に電話する気持ち、分かっちまったし⋯⋯」と名前の頭をひと撫でしてから改札を通った陣平に、繋ぐことの叶わなかった手を振る。
一人の家に戻るのは、酷く寂しい心地がした。