灯火を織る人





 月曜日の昼食休憩の時だった。

 
「えーー?! 一昨日のって初恋の人だったの?! しかも付き合う事になったって?!」
「うわあ、声がおおきい」

 
 リハビリ室のスタッフルームで昼食を摂っていた最中、一際大きな声が部屋に響いた。大声で名前の近況を周囲に知らしめてくれたのは、大学時代からの親友である。名を都という。


「再会したその日に?! 名前にしては思い切ったというか何と言うか」
「ねー、わたしもそう思う」
「ごめん、余計なお世話かもしれないけど聞かせて。⋯⋯ちゃんと、大丈夫?」
「うん。わたしには結局ずっと⋯⋯陣平くんだったから」


 呟くように答えた名前を、都の双眸が映す。名前の表情に迷いがないことを見取って、都は頷いた。

 
「⋯⋯そっか。名前が幸せなら何でも良いんだ、私は。それはそうと陣平くん? っていうのね? 名前を泣かせたらもれなく私が出てくるからって言っておいて」
「ふふ、ありがとう」


 弁当箱に詰めてきた卵焼きを箸で摘む。隣では都がサンドイッチを頬張りながら、名前を覗き込んでいた。ちなみに都には事実上半同棲となっている看護師の彼氏がいる。


「警察学校に行ってるって言ってたっけ?」
「うん。警察の中で何になるかはこれから決まるんだって」
「そう⋯⋯大変な仕事だね」


 名前たちは医療者の中では珍しく、大方暦通りの勤務をする職種だ。夜勤や当直、大幅な残業もない。対して警察官は──配属先にも依るであろうが──、大方何でも有りの勤務形態なのであろう。不規則な生活になる上、時には命をかけて誰かのために。そういう仕事だ。

 都は恐らくそういったところを危惧しているのだと思う。そんな彼女へ、「今度伝授してね、不規則な仕事してる人と上手くお付き合いする方法」と口にしかけた、その時だ。

 此方をちらちらと気にする人物を視界の隅で捉え、視線を移す。──後輩だった。昨日名前を心配し電話を掛けてくれ、それを名前が一方的に切ってしまった彼だ。今朝の始業前にはタイミングがなく、まだ話せていなかった。

 院内にあるコンビニで購入したのであろうカツ丼を手にしている彼へ、思い切って声を掛ける。

 
「和泉くん⋯⋯その、昨日は電話切っちゃってごめんね。色々聞こえた、よね」
「⋯⋯昨日の男の声も、今の話も聞こえました」


 次の瞬間、がたりと和泉が立ち上がる。テーブルにカツ丼をドンッと置き、大股三歩で名前に近付き、目の前に立ち塞がる。

 その普段とは異なる雰囲気に、名前はたじろぎつつ身を縮こめた。隣では都が「ちょっとちょっと和泉」と窘めているが、和泉はどこ吹く風で名前に詰め寄る。


「先輩に向かってすみません。でも苗字さんってちょっと抜けてるところあるから言わせてもらいますけど!」
「は、はい、何でしょう」
「それ騙されてませんか? いくら初恋の人っていったって、五年も前の事なんですよね? そんなに離れてたのに、たった一日でその人の何が分かるんですか?!」
「えっ、騙⋯⋯?!」
「今時結婚詐欺とかナントカ商法とかあるじゃないですか!」


 名前はぽかりと口を開ける。詐欺。馴染みのないその単語を頭の中で繰り返す。詐欺、か。その発想はなかった。何ひとつとして疑わなかった。

 こういう名前は恐らく格好の獲物で、名前のような人間が次々と騙されていく世界が、確かにすぐ側にあるのだろう。

 けれど。

 
「⋯⋯和泉くん。たくさん心配してくれてありがとう。でもね、」


 真っ直ぐに和泉を見上げる。
 和泉の意見は客観的で真っ当なものなのかもしれない。名前と陣平のあの日々を知らぬ人間には、名前の言葉は世迷言に聞こえるのかもしれない。

 それでも。

  
「例え騙されてたとしても、わたし後悔しないよ」
「──っ」


 和泉が息を呑む。誰が何を言うまでもなく、名前の陣平に対する想いを目の当たりにしたからだ。

 きつく拳を握り名前を見下ろす和泉に、都が声を掛ける。
 

「⋯⋯ほら和泉、戻んな。少し頭冷やして」
「⋯⋯すみません」


 苦虫でも噛み潰したかのような顔で背を向けた和泉に、名前が元気に「ありがとね! もっと和泉くんが安心して頼れるような先輩目指すからねー!」と声を掛ける。

 その瞬間和泉は肩を落とし、この部屋にいた名前以外の者は皆ずっこけそうになった。


「あんたもあんたなのよねえ⋯⋯」


 都の呟きが、行く宛なく彷徨った。