灯火を織る人





 がたん。ごとん。
 名前が背を向けているホームから列車が発車する。ヒュオ、とぬるい風が吹き抜けた。

 陣平と付き合い始めてから三度目の土曜日となる今日は、最近リニューアルされた大型ショッピングモールでデートをすることになっていた。双方から最も近い乗換駅で待ち合わせをし、今こうして、来たる列車を待っているというわけだ。

 私服姿の陣平の、今日も今日とて元気に跳ねている癖毛を見上げる。今日こそは勇気を出して言うのだ。手を繋ぎたい、と。そう決意を改めたその時、名前たちの待つホームに列車が滑り込む。程よく混んだ車内。座ることは出来なさそうだ。

 端の車両に乗り込んだ名前たちは壁に設置された手摺の前に陣取り、四つ先の駅を目指す。一つ目の駅。そして二つ目の駅。そのホームが視界に入った、その時だ。

 その光景を見た途端、名前も、そして陣平も。「うげ」と声を漏らしていた。車窓から見えるホームに、人、人、そして人。物凄い人数が列車の到着を待っていた。
 

「うわ、凄い人! 何これ何のイベント?!」
「知ったこっちゃねえけど⋯⋯おらボケっとしてんな、早くこっち来い」
「う、わ」
「こいつら限界まで乗ってくるぞ、お前なんてあっという間に潰されちまう」


 陣平にぐっと手を引かれるのとほぼ同時。ドアがプシュと開き、文字通り人が雪崩込んでくる。

 このままでは圧し潰される、と思うが早いか。トン、と背が壁に当たって。左右、そして正面からの人波から守るように陣平の身体が名前を覆う。ぎゅむりと圧された陣平の体躯が、やわらかく名前に密着する。


「──⋯⋯陣平、くん」
 

 名前は息を呑んだ。

 こんなにも周囲は人で溢れているというのに。名前の身体は陣平以外の何者にも触れていないのだ。

 まさに目と鼻の先にある陣平の顔を見上げる。陣平は開いた方のドアを睨み、「いやもう乗れねえだろ。ぎゅうぎゅう押しやがって⋯⋯ったくこれ以上乗ろうとすんなら逮捕するぞ?!」などと物騒な悪態を吐いていた。

 そんな陣平に笑ってから、彼の服を掴み、そしてその胸に額を預ける。束の間目蓋を閉じる。

 こんな。こんなふうに。
 他の乗客から守るように恋人の胸に仕舞われて。

 
「嬉しくて死んじゃう⋯⋯」
 

 名前はぽそりと呟いた。
 
 陣平は知らないのだ。会うたびに繋ぎたくても繋げない手を、いつも宙に彷徨わせていたことを。外でデートをするばかりで思うように触れ合えないもどかしさを、毎夜噛み潰していることを。

 今だけは。満員電車にかまけて、人前でも陣平に触れられる喜びに浸っても許される。酸素も薄ければ空気も悪いし、全てにおいて苦しい。満員電車など大嫌いだ。しかし皮肉にも、その満員電車に感謝する日が来ようとは。
 

「陣平くん、ありがとう。大丈夫?」
「俺は全然。つーかそんなことより⋯⋯」


 くん、と陣平の鼻が近付く。そのまま名前の髪に顔をうずめ、ほんの僅かだけすりすりと顔を擦り付けた。
 

「あー⋯⋯ホテル連れ込んじまいてえ。そろそろ我慢の限界」
「⋯⋯っ」


 名前にしか聞こえていない。耳元で囁かれたその言葉に、名前の身体はぞくりと粟立った。

 思っていいのだろうか。陣平も同じだと。陣平も名前に触れたいと思ってくれていると、思っていいのだろうか。

 耳まで真っ赤にした名前を、陣平が包む。陣平の服を握り締める手に、きゅうっと力が込められた。







「わあ、広ーい! 映画までまだ時間あるし、どうする? どこ行く? あ、陣平くん! クレープ食べたい!」
「へいへい、どこへなりと」


 今日、陣平には心に決めていた事がある。名前の行きたところ、したいこと、食べたいもの、欲しがるもの、その全てを叶えてやろうと。

 なぜなら萩原に、「陣平ちゃん⋯⋯そんなんじゃ振られちまうぞ?」と真顔で言われたからに他ならない。
 
 事の発端は先週のデートでのことだった。

 一度目のデートでは名前の行きたかった臨海公園を満喫していたので、二度目のその日は陣平が行きたかったという大きな工具店に行ったのだ。最初こそ物珍しく店内を眺め回していた名前だったが、陣平が店主とやれこのドライバーはここがこーだ、やれこのペンチはここがどーだ、と真剣に話し出したあたりで悟った。

 あ、これは自分の住まう世界とはまぐわわぬ世界線だな、と。

 それでも暫くは辛抱強く努めたのだ。話を聞いていればそのうち分かるようになるのでは、とか。今情報を得ておけば、いずれ誕生日プレゼントに出来るのではないか、とか。

 しかしそんな淡い期待はものの数分で塵となって消えた。

 会話の内容はいつまで経ってもまるで分からないし、待てども待てども話が終わらない。それはそれはいくら待っても終わらない。ついぞ「陣平くん、わたし少し外の空気吸ってくるね」と話し掛けても、まさに右の耳から左の耳。

 仕方なく名前は近くの本屋でちょうど欲しかった文庫本を買い、それをカフェで読みながら時間を潰したというわけである。

 のちにこれを聞いた萩原が、「はーーー?!?! デートに工具店?! しかも夢中になって長時間放っといたって?! 馬鹿にも程がある⋯⋯いやマジでばっっっかじゃねーの! 今すぐ電話だ! 名前ちゃんに! 今すぐ!」と珍しくマジな顔でマジに怒られ、陣平なりに反省したのだ。「名前ちゃんじゃなかったら捨てられてたぜ」だの、「大人になったと思ったら全然変わってねえじゃん」だの散々言われては、陣平といえど流石に堪える。

 ちなみに萩原にせっつかれて電話をすると、「ふふ、全然だよ。ちょっとわたしには分かんない世界だったけど、楽しそうな陣平くん見れてわたしも楽しかったし。でも次は工具だけじゃなくてわたしとも少し話してね」だなんて返事が返って来て、「⋯⋯いい子だよなあ、名前ちゃん」と萩原の涙を誘っていた。

 だから決めていたのだ。
 今日は名前のしたいことを全部叶える日だ、と。

 もうじき昼食時だというのにぺろりとクレープを平らげた名前を見下ろし、陣平は言う。
 

「おし名前、今から俺がひとつ願いを聞いてやる」
「はい?」
「何でもいいぞ、何か言ってみ」
「え、な、なに? 願い?」


 突拍子のない言葉に、名前は目をぱちくりと開いて陣平を見上げた。明らかに説明を求めている視線だが、皆まで説明するのも面倒なので、陣平は「ほら、何かねえのかよ?」と更に問う。


「全然よく分かんないけど⋯⋯何でもいいの?」
「おう」
「ほんとに何でも?」
「だからいーって」
「じゃ、じゃあ⋯⋯その、ごにょごにょごにょ⋯⋯」
「? 何だって?」


 尻すぼみに消えてしまった願い事を問い返す。名前は逡巡する素振りを見せてから、やはりごにょごにょとそれを口にした。

  
「手、を、繋いで歩きたいです⋯⋯」
「⋯⋯は」


 思いもよらなかった願いに、陣平は口を「は」のかたちに開いて固まる。願い、って。そんな事でいいのか⋯⋯?

 そしてそのままを口にする。


「んなことでいーのかよ?」
「そんなことって⋯⋯え? いいの?」
「? 何で駄目なんだ?」


 陣平の表情は明らかにこう言っていた。「俺、駄目っつったっけ?」と。それを見た途端、名前は「うわ〜〜〜」と頭を抱えた。

 
「え〜〜〜何だ、繋いでよかったんだあ⋯⋯ずっと悶々として、わたしすっごい馬鹿みたい⋯⋯もっと早く手出してればよかった⋯⋯!」
「いや言い方よ。手を繋ぐと言え」

 
 呆れた顔の陣平が、名前の手を取る。手のひらを合わせて軽く握ってから、探るように五指が動き、そして互い違いに絡み合う。大きな手と、小さな手。異なる体温が行き来する。

 陣平の手に包まれ頬を緩める名前からは、人知れず笑みが零れていた。

 それを陣平の双眸だけが見つめている。


「つーかもっと早くって、いつからよ?」
「陣平くんと付き合うことになった日から」
「あの日から? 会うたびずっと迷ってたって? 俺がそういうの嫌いだと思って?」
「そう」


 一歩。二歩。三歩。
 てくてくてくと歩を進めて、陣平が笑い出す。

 
「はははっ、名前ってそういうとこ馬鹿だよなー」
「⋯⋯なによお」
「確かにどーでもいいヤツにベタベタされんのはすっげー嫌いだけど。⋯⋯名前だぜ?」
「⋯⋯っ」


 陣平は、知らないのだろう。
 萩原も、知らないのだろう。

 こうしてさも当たり前かのように出てくる言葉が、どれ程名前を幸福で満たすのかということを。

 陣平も萩原も先週の工具店での事を気にしてくれていたが、名前にとってはさしたる事ではないのだ。何しろ“好きな事に夢中になると周りが見えなくなる男の子”と、何年も一緒に生活してきた、否、育ててきた身である。男の子とはそういう生き物なのだと本能に刷り込まれているし、何なら微笑ましくさえある。

 だから、この幸福こそが。すべてだ。

 
「お前、手繋いでたいタイプなのか?」
「そういう自覚はなかったんだけど⋯⋯なんかそうみたい。陣平くんの隣歩いてると、気付いたら手繋ぎたいなって考えてる」
「⋯⋯ならいつでもいいぜ。変なこと迷って名前が寂しくなるくれーなら。俺もお前の手握ってると安心するし」
「安心?」
「そ。こーしてっとお前迷子になんねえだろ?」
「なっ、こうしてなくてもならないもん!」
「はは」

 
 傍から見れば完全にバカップルな会話を重ねながら、先に映画のチケットを買い、名前の入りたい店で昼食を摂り、映画の時間まで別の店でも見ようか、というところで──その事件は起こった。